日本の城ある記(山陰の城・篠山城) 

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 篠山城  (ささやまじょう)

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 三日前の天気予報では曇り時々晴だった。早朝空を見上げると、午前中は何とか持ち堪えてくれそうだが午後には雨が降り出しそうな気配だ。雨の降らないうちに訪れたいと新大阪駅近くのホテルを急いで出る。JR篠山口に着いたのは午前7時10分。ここからバスで篠山城に向かう。大阪では雨は降っていなかったが、ここでは小雨が降ったようだ。幸いに篠山城に到着した時は止んでいた。とはいえ何時降り出すかわからないので、足早に歩く。
 早朝だったが、お城の中には入ることができた。ただし今日は月曜日。お城は篠山市の関係機関が管理しているようで、月曜は休日。二の丸にある御殿(大書院)の中は入ることはできない。
 大書院は篠山城の築城に合わせて慶長14年(1609)に建築されたが、昭和19年(1944)に失火により焼失。平成12年(2000年)に再建されたもの。東西28m、南北26mで京都二条城の御殿を参考にして建てられた。篠山城内では最大規模の建物であったようだ。明治維新後城内の建物は大書院を除きすべて取り払われている。
 篠山城が築かれた篠山盆地には中世から戦国時代にかけて丹波を支配した戦国大名・波多野氏が本拠としていた八上城(やかみじょう)があった。城は丹波富士とも称される標高約460m高城山の山頂に築かれていた。篠山城の本丸天守台から八上城が築かれた丹波富士が間近に見える。篠山盆地は山陰から京、大阪方面へぬける要の地であり、経済的にも軍事的にも要衝であった。それだけに八上城を巡っては数々の戦闘が行われた記録がある。天文年間(1532〜1555)には細川、三好、松永の軍勢に5度も攻撃されているが、いずれも撃退している。難攻不落の要塞であったようだ。しかし天正7年(1579)信長の命を受けた明智光秀の丹波攻めにより八上城は落城し、戦国大名としての波多野氏は滅亡する。
 関ヶ原の戦後の慶長7年(1602)に豊臣政権で五奉行の一人であった前田玄以の子・前田茂勝が5万石の所領で八上城に入城する。前田茂勝はキリスト教徒であったようだが、慶長13年(1608)に茂勝は重臣数名を殺害ないし切腹させる事件が起きる。徳川幕府は発狂を理由として茂勝を改易させる。代わって常陸笠間から松平(松井)康重が5万石で入封する。康重は徳川家康の重臣である松平康親の嫡男であるが、家康の落胤との噂もある。
 慶長14年(1609)家康は大坂城包囲網の拠点として新たな城郭を築城することを命じ、加藤清正、福島正則ら徳川恩顧の武将を中心とする20大名に天下普請として篠山城を築かせる。縄張りには築城の名手・藤堂高虎が命じられた。篠山城の完成に伴い八上城は廃城となる。篠山城は藤堂高虎流の「回」の字形の縄張りであるが、北、東、南の三カ所に巨大な角馬出が設けられているのが特徴的である。天守台はあるが天守は当初より建てられなかった。
 現在本丸二の丸はほぼ完全な形で残り、これを囲む水堀も原形を留めている。三の丸を囲む水堀は幅が約40mと城の規模からは巨大であったようだ。三の丸の一部は公共施設や学校の用地になっているが、東と南の馬出は残っている。(2018年3月19日)
 
   
   
   

篠山藩 歴代藩主 
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
慶長14年
(1609)
5万石 松平(松井)康重(譜代)丹波八上より入封 康重は慶長13年(1608)に常陸笠間から八上城に入るが、篠山城の完成により篠山城主となる。
元和5年
(1619)
5万石 松平(藤井)信吉(譜代)上野高崎より入封
丸に「利」の字 慶安2年
(1649)
5万石 松平(形原)康信(譜代)摂津高槻より入封
寛延1年
(1748)
5万石 青山忠朝(譜代)丹波亀山より入封

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