日本の城ある記(山陰の城・柏原陣屋) 

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 柏原陣屋  (かいばらじんや)

城ある記
 柏原陣屋は篠山城から東北方面に直線距離で15kmほどの距離がある。戦国時代末期、ここには現在は八幡神社の境内となっている八幡山に八幡山城(砦)があった。八幡神社は寺伝によると万寿元年(1024)の創建とされる。八幡山城は天正6年(1578)明智光秀による丹波攻めのときに、敵対する黒井城の抑えの城として築城されたという。おそらく神社の社殿などは取り壊したか移転させて、その跡地を利用して築城したと思われる。天正7年(1579)には光秀によって西丹波地方が平定され、八幡山城の役割は終わったようだ。因みに天正10年(1582)に豊臣秀吉が八幡神社の再建を当時の黒井城の城主堀尾吉晴に命じている。
 柏原には慶長3年(1598)に伊勢安濃津から織田信長の弟織田信包が3万6千石で移封される。信包は関ヶ原の戦で西軍に与したが所領は安堵されている。三代目藩主の織田信勝が慶安3年(1650)に死去するが、信勝に嫡子がおらず無嗣断絶となり、柏原藩は幕府の管理地となる。
 元禄8年(1695)信長の二男・信勝の子孫である織田信休(おだのぶやす)が2万石で入封。織田信休は元禄8年に大和宇陀松山藩2万8千石の第五代目の藩主として家督を相続するが、元禄7年に父の信武が「宇陀崩れ」と称されたお家騒動で自害する騒動を起こしており、このことにより8千石を減封され柏原に転封されることになった。元禄11年(1698)に初めて国入りを許可され、正徳4年(1714)になってようやく陣屋が完成する。
 陣屋御殿は文化13年(1816)に焼失し、文政3年(1820)に再建されている。陣屋正面の長屋門は焼失を免れ、創建当時から残る唯一の建物。陣屋の大手通に時刻を知らせると同時に監視の役割もあった三層の太鼓櫓があったが、明治維新後に城下の大倉神社に移築されて現存している。最上階に吊り下げられている太鼓には「大和松山」の墨書きがあり、信休が持参した太鼓とされる。

 柏原にお城はなかったが、街並みは城下町らしさの残る落ち着いた佇まいである。柏原陣屋は国指定の史跡。八幡山にある八幡神宮には秀吉の命によって再建された拝殿、本殿が現存し国の重要文化財に指定されている。また江戸時代後期に再建された三重塔もある。柏原を訪れたとき小雨であったが、どうやら本格的な雨になったようだ。このあと黒井城に向かう予定であったが、登城はちょっと無理なようだ。しばらくは柏原の町を散策することにする。(2018年3月19日) 


柏原蕃 歴代藩主 
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
慶長3年
(1598)
3万6千石 織田信包(外様)伊勢安濃津から入封 信包は織田信長の弟。関ヶ原の戦では西軍に与するが所領は安堵される。三代目藩主の信勝に嫡子なく慶安3年(1650)無嗣断絶。
元禄8年
(1695)
2万石 織田信休(外様)大和松山より入封 信休は織田信長の二男・信勝の末裔。

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