日本の城ある記(山陰の城・出石城)

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 出石城 (いずしじょう) 

 
ある
 早朝、京都から嵯峨野線で園部へ行き、山陰線に乗り換え福知山へ。更に福知山で乗り換えて豊岡へ。京都を出たのが朝の6時半。豊岡に着いたのは10時だった。この後は鳥取、米子、松江に行く予定だ。当初は岡山から松江に出て、米子、鳥取、豊岡を巡る予定であったが2週間ほど前の豪雨で岡山から松江へに行く路線が不通となり、やむを得ず松江で折り返す逆回りで旅を続けることにした。

 豊岡駅前の温度計は34度、湿度65%。気温は高いが湿度はそれほどでもなく、前日訪れた名古屋の身体に巻き付くような熱気ではない。とはいえ、まだ午前10時。午後にはもっと気温が上がりそうだ。
 豊岡駅から出石(いずし)行のバスに乗り約40分、終着駅で降りる。ここから出石城までは徒歩で5分ほどの距離。
 出石城はもともとあった有子山城の麓に造られた居館の跡に築かれた城。関ヶ原の戦の後、慶長9年(1604)に築かれた城である。縄張りはすごくシンプルで、おそらく居館の区割りをそのまま利用したのではと思われ、階段状に4段の曲輪を配しているだけだ。
 最上段が稲荷曲輪。その下段に本丸、更に二の丸、下の曲輪へと続く。虎口は3カ所設けられ、大手口は正面に造られた。コの字状の堀を築いているが、守りが充分とは言い難い。出石城の完成に伴い背後の山に築かれていた有子山城の廃城を幕府に届けているようだが、有子山城の石垣等は残った状態なので有事の際は詰の城として利用する思惑がったのかもしれない。
 出石城を築いたのは和泉岸和田藩の初代藩主であり豊臣秀吉の叔父にあたる小出秀政の長男小出吉政の、その長男である小出吉英。

 小出吉政は文禄4年(1595)に6万石に加増されて出石有子山城の城主となる。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で小出秀政、吉政親子は西軍に与する。しかし秀政次男の秀家が東軍側として参戦して武勲をあげたことから秀政、吉政の所領は安堵される。
 慶長8年(1603)秀家が病死、次いで秀政も死去すると吉政は岸和田3万石に移り、出石6万石は吉政の長男吉英が受け継いだ。
 吉英は慶長9年(1604)山麓の居館を出石城として整備。有子山城は廃城とした。
 第9代藩主であった小出英及は元禄9年(1696)に病死するが嗣子なく改易となり、翌元禄10年(1697)に武蔵岩槻より松平忠周(ただちか)が4万8千石で入封する。忠周は宝永3年(1706)に信濃上田へ転封となり、代わって信濃上田から仙石政明が5万8千石で入封する。
仙石家は明治維新まで出石藩主を務める。仙石家の前任地信濃上田は蕎麦の名産地。その所為か、出石城に至る道筋には蕎麦屋の看板を掲げる店が何軒かあった。これから出石城の背後にそびえる有子山の頂上、有子山城の本丸を目指すが、山城から下りたら名物の蕎麦を食べることを楽しみにして登坂を開始する。(2018年7月23日) 

出石藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長5年
(1600)
6万石 小出吉政(外様) 関ヶ原の戦で西軍に与したが所領を安堵される
慶長9年(1604)小出吉政の長男吉英、有子山城の山麓に出石城を築く。
元禄10年
(1697)
4万8千石 松平(藤井)忠周(譜代)武蔵岩槻から入封 元禄9年(1696)小出家に嗣子なく断絶。 
丸に無の字 宝永3年
(1706)
5万8千石 仙石政明(外様)信濃上田より入封  

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