日本の城ある記(山陰の城・有子山城)

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 有子山城 (ありこやまじょう) 

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 有子山城は天正2年(1574)山名祐豊によって築かれた。もともと但馬国守護職にあった山名氏一族の居城は有子山城の北方約4km出石神社の北側にあった此隅山城(このすみやまじょう。別名=子盗城)であったが、永禄12年(1569)に羽柴(豊臣)秀吉によって攻められ落城。山名祐豊は和泉堺に落ち延びる。堺の豪商今井宗久の仲介で山名祐豊は織田信長と対面し、織田軍に協力することを誓って出石郡の所領を認められ復帰する。復帰した山名祐豊は此隅山城を廃城として、新たに標高321mの有子山に城を築いた。また麓には居館を築き、城下町も整備する。麓の居館は後に出石城の基となる。
 天正8年(1580)信長の命を受けた秀吉は中国侵攻を開始する。この時、毛利側に与した山名祐豊は再び秀吉に攻められ有子山城は落城、山名家は滅亡する。
 天正13年(1585)秀吉の家臣である前野長康が秀吉の四国攻めの功などにより5万3千石を拝して出石に移封され有子山城の城主となる。その後前野長康は小田原征伐などの功により11万石に加増されるが、文禄4年(1595)秀次事件に連座して失脚する。代わって岸和田藩初代藩主で秀吉の従兄である小出秀政の嫡男小出吉政が6万石で入封する。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で小出秀政、吉政親子は西軍に与したが、秀政次男の秀家は東軍側として参戦して武勲をあげたことから吉政の出石での6万石の所領は安堵される。慶長8年(1603)秀家が病死、次いで秀政も死去すると吉政は岸和田3万石に移り、出石6万石は吉政の長男吉英が受け継ぐ。
 吉英は慶長9年(1604)山麓の居館を出石城として整備。有子山城は廃城とした。
 有子山城へは出石城の稲荷曲輪の東側の登城路から入る。ここが本来の大手道であるかどうかわからないが、本丸まで980mの案内板がある。980mなら大したことはないと登り始めるといきなり急斜面の岩場に出る。遊歩道と書かれた標識もあるのでここさえ登り切れば後は平たんな道になると願いながら登ったが、その思いは無残に消え去る。登城路は一向になだらかにならない。老人の私には安全のために張られたロープを頼りに休み休み登るしかない急勾配が続いている。おまけに湿気を伴った暑さに責められる。汗拭き用のタオルは軽く絞っただけで水滴がしたたり落ちる。山城は夏に行くべきところではないと、この時ばかりは後悔する。それでも30分(正確な時間を計る余裕がなかったので推定)くらい登って中間地点の標識がある小さな曲輪跡に出る。案内板には「ここからは平坦な道が続く」と慰めの言葉が書いてある。事実、ここからは尾根道を直線的に登るのでなく山腹を巻くように築かれたなだらかな道となる。崩れ落ちて原形を留めていない井戸曲輪を通り、再び尾根道に入ると涼しい風が汗にまみれた体を通り過ぎる。しばし休息して再び尾根道を登る。但し今度の尾根道はそれほどの勾配はない。しばらく登ると、石垣によって築かれた曲輪跡が連続している。ここまで来て、登った甲斐があったと満足する。さらに進むと、より大規模の石垣が行く手を阻む。石垣の前には左手「本丸」右手「千畳敷(曲輪)」の分岐点の標識がある。少し迷ったが左手を進み本丸へ行くことにした。そろそろ頂上が近いなと一段高い曲輪に出ると、人の背の倍の高さのある石垣で固められた大きな曲輪が目の前に現れる。ようやく本丸にたどり着いた。登り始めて約一時間。登坂中には湿気を感じた空気も、今は乾いた空気に感じる。降りそそぐ日差しは強烈だが暑さはさほど感じない。私以外の誰もいない山上に立って、ちょっと大袈裟だが日常を超えた冒険心を満足させてくれる。 
 本丸と千畳敷は鋭く切り開かれた堀切によって遮断されている。もっとも堀切と私が勝手に推定する地形は人の手で切り開いたものでなく、自然の地形であるのかもしれない。ともあれ本丸から見て、千畳敷は平坦でその面積は本丸の数倍の広さに見える。千畳敷と呼ばれる場所には館跡か兵士の駐屯地であることが多い。そうなら有子山城が城として機能していた時代には堀切に木橋が架けられていたのだろうかと、それらしき地形を探したが見つからなかった(素人の私に分かるはずはないか)。
 本丸を下り、千畳敷に登る。一般的な畳千畳は約5百坪であるが有子山城の千畳敷はその数倍、おそらく3千坪以上に感じる。本丸からは全くの平坦な地形に見えたが、5,60センチほどの高さの石垣で段差が設けられた場所もある。各所に石垣に用いられたと思われる石が転がっている。礎石、庭石らしきものが散見され屋敷跡とも思える場所もある。素人ながら、そんな想像をしながら歩き回るのも面白い。
 登城するのにたっぷり汗をかいて濡れた衣服もようやく乾いた。時計を見れば、本丸に到着してから一時間半ほど経っている。そろそろ下り始めるとする。下りは登り以上に慎重さが求められるようだ。30代までは登山を趣味にしていたが、40代になってからの運動不足は、70代になった今になって、より一層の負荷をかけて続いている。(2018年7月23日)

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