日本の城ある記(山陰の城・鳥取城) 

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 鳥取城 (とっとりじょう) 


ある 
 今日も厳しい暑さが予想される。目指す鳥取城は「山下の丸」と「山上の丸」に分かれ、本丸を「山上の丸」に配した山城である。少しでも涼しいうちに訪れたいと鳥取駅前の宿を早朝に発つ。まずは駅のコインロッカーに旅行鞄を預け、カメラと汗拭き用のタオルを入れたバックを肩にかけて鳥取城まで歩く。約20分で吉川経家の像が建つ内堀に到着。
 鳥取城の城下町には直線状の三本の街道が配置されている。城に向かって左に鹿野に通じる鹿野街道。真ん中に姫路へ通じる若桜(わかさ)街道。右に岡山に通じる智頭(ちず)街道。それぞれはお城を目指すように等間隔で配置されている。一般的に城下町を通る街道筋は防御のためにクランク状に整備されることが多いが、鳥取城下は山上の丸から一望できることから、むしろ街道を直線的に配した方が侵入者を監視するのに都合がよかったのかもしれない。私は鳥取駅前通りからつながる若桜街道筋から鳥取城を目指した。因みに鹿野街道が通じる鹿野は鳥取藩の支藩・鳥取新田藩の所在地。若桜街道が通じる姫路は池田光正(姫路藩主から鳥取藩主へ)の旧藩領。智頭街道の通じる岡山は池田光仲(岡山藩主から鳥取藩主へ)の旧藩領でもある。

 鳥取城のある標高236mの久松山に最初に城を築いたのは戦国時代の中頃の天文年間(1532〜1555)に因幡国の守護・山名氏によるとされる(異説もある)。以後江戸時代まで連綿として城として維持されてきたので、何度も城郭の修復、拡張がなされている。現在目にする遺構のほとんどは江戸時代のものと思われるが、発掘調査などにより過去の城郭の遺構も見つかっており、戦国から江戸時代までの城郭の変遷を窺うことができる貴重な城址であるという。
 鳥取城の大手口は現在発掘及び整備中。将来ここには大手門や櫓が建てられるという話を地元の人から聞いたが、現在は通行できない。左手(城に向かって)の北の御門跡を抜けて西坂下御門から二の丸へ向かう。西坂下門は江戸末期の慶長3年(1867)に建てられたが昭和になって強風で倒壊。その後旧態通りに復元された門という。西坂下門から階段を登ると、二の丸との仕切りに山上に伸びる登り石垣を目にする。幕末期に造られた登り石垣としては全国唯一という。私が彦根城で目にした登り石垣は江戸初期に築かれたもの。その違いがよくわからない。
 二の丸には山上の丸の天守が元禄5年(1692)に落雷で焼失して以降、天守代用のシンボルとされた三階櫓が建っていた。三階櫓は享保5年(1720)の火災で焼失したが8年後に再建され明治維新まで残った。しかし残念ながら明治12年(1879)頃までに取り壊された。今は三階櫓の土台であった石垣だけが残っているが、城下を見下ろす格好のの場所に位置しており、櫓が再建されるようなことがあれば再び鳥取城の主役になれそうだ。
 

 二の丸の一段上に天球丸がある。鳥取藩初代藩主の池田長吉の姉で若桜藩初代藩主山崎家盛の夫人であった天球院が山崎家を去った後に居住していた場所であることからその名が付いたとされる。天球丸の南東には二重の多聞櫓に望楼が載った特異な形の三階櫓があったが、二の丸の三階櫓と同じく享保5年(1720)の火災で焼失する。二の丸の三階櫓は再建されたが、こちらは以後再建されることはなかった。また天球丸の石垣には球面の巻石垣が構築され、背後の山の水圧などから石垣のたわみ、崩壊を防ぐ補強がなされている。巻石垣は港湾や河川の補強に用いられるのが普通で、城郭の補強に用いられるのは他に例がないという。 


 山上の丸へは天球丸西の登城路から登る。かなりの急坂が続くが前日に登った出石の有子山城ほどの距離はない。ゆっくり登っても2、30分ほどで本丸に到達できる。途中で合宿中の運動部員らしき高校生10人余りが勢いよく駆け下りてくるのに出くわす。かつての自分の若かりし頃を思い出すが、急坂を走って上り下りするなど、今では叶わぬ夢である。
 山上の丸には天守、御旗櫓、着見櫓、多聞櫓などの建物のほか井戸も掘られていたという。井戸のあとは現在も目にすることができるが、山上に造られた井戸の深さはいかほどなのだろうか。
 山上の丸は大きく三段に分かれている。東方に一段下がって二の丸、更に一段下がって三の丸と見做すこともできる。西側の郭には天守台がある。天守台の規模から推測して、ここには犬山城の天守と同程度の規模の二層の天守が建っていたと推定されている。天守台の一部は昭和18年(1943)に起きた大地震によって崩れ、現在も修復されていない。
 天守台からは鳥取市街はもとより、日本海、鳥取砂丘を展望することができる。

 従来、最初に鳥取城を築いたのは天文年間(1532〜1555)因幡の守護・山名誠通(のぶみち)とされていたが、近年は因幡山名氏と対立する但馬山名氏の山名祐豊(すけとよ)で、久松山に自然地形を利用した山城(付城)を築いたのが最初とする説が有力のようである(山名氏の宗家は但馬山名氏)。もっともこれも確定した説ではないようだ。鳥取城の城主として確定しているのは永禄年間(1558〜1570)因幡武田氏の武田高信からという。
 因幡武田氏は清和源氏の一家系・河内源氏の庶流甲斐源氏の流れで若狭武田氏のさらに庶流の一族であったが、因幡山名氏の客将として優遇されていた。高信の父武田国信は山名誠通が因幡の守護職の時に自ら願い出て鳥取城の城番の地位を得る。
 因幡の山名誠通が但馬山名氏に討たれて滅亡した後、武田高信は但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣になったが、永禄年間(1558〜1570)には鳥取城を拠点として因幡山名氏と対立するまでに力をつけていた。
 永禄4年(1561)但馬山名氏・山名豊定の嫡男・豊数(とよかず)が因幡守護に就く。これに対して永禄6年(1563)武田高信は山名祐豊の一族とされる(出自はよく分かっていない)山名豊弘を名目的な守護職として擁立して挙兵。豊数はこれに対抗して鳥取城の高信を攻撃するが敗退。逆に守護所である布勢天神山城を攻撃され、鹿野城に退去させられる。豊数は但馬山名氏の支援を受けるが、毛利氏の支援を受けた武田氏の前に劣勢を余儀なくされる。武田高信は永禄7年(1564)鹿野城を攻めて豊数は討ち死にする。(死亡した時期は確定していない)。代わって豊数の弟山名豊国が因幡守護職を継承。しかし因幡の実質的な支配権は武田高信の手にあった。
 天正元年(1573)豊国は尼子氏再興を願い挙兵した山中幸盛(鹿之助)の支援を受け武田高信が籠る鳥取城を攻めて高信を追放して山名豊国が鳥取城に入る。しかしそれもつかの間、同年に毛利氏の武将・吉川元春に攻められ降伏して豊国は毛利の軍門に下る。天正2年(1574)になると再び尼子氏残党が鳥取城を攻め、豊国は降伏。天正3年(1575)但馬の山名氏と毛利との間で同盟が結ばれ毛利氏の勢力が因幡に及ぶと尼子氏の残党は鳥取城を撤退。豊国は鳥取城主としての地位を回復する。
 天正4年(1577)室町幕府将軍・足利義明は毛利氏を頼り織田信長と対立。信長と毛利の対立が決定的となる。信長は秀吉に命じて中国攻めを開始する。
 天正8年(1580)秀吉は秀吉の弟・秀長を主力部隊とする秀吉勢を但馬に侵攻させ、有子山城、出石城を陥落させて但馬を平定。次いで因幡に侵攻して鳥取城を包囲する。籠城する豊国に対して因幡一国の所領の安堵を条件に開城を迫った。豊国は秀吉の申し出を受ける意向であったが、徹底抗戦を主張する家臣団と対立。豊国は単独で鳥取城を出て秀吉に投降する。秀吉は因幡侵攻計画を練り直し、若狭の商人に因幡の米や麦を買い占めさせる。これにより価格が高騰して、城の備蓄米を売る者さえあったという。
 鳥取城に籠る毛利側の家臣団は豊国を見限り、毛利家に対して吉川元春の派遣を要請する。元春は石見福光城の城主で吉川一族の吉川経家を城主として派遣する。
 天正9年(1581)秀吉は再び鳥取城を包囲。堅固な守りの鳥取城を力攻めすることを断念して兵糧攻めにすることを決める。前年に因幡国内の米や麦を若狭の商人に買い占めさせたのもこのための布石であった。3か月の籠城の末に兵糧も尽き餓死者が出る事態となり、吉川経家他の主力武将は自害し、鳥取城は開城する。
 鳥取城には浅井氏の旧臣で秀吉の与力となっていた宮部継潤(みやべけいじゅん)が城代として入り、織田勢の山陰攻略の拠点となる。信長が本能寺で討たれた後、天正13年(1585)宮部継潤は秀吉の九州平定に従軍して功績をあげ、その功によって因幡但馬の内から5万石を得て正式な鳥取城主となる。その後慶長元年(1596)宮部継潤は隠居し、嫡男の宮部長房が家督を継ぐ。長房は関ヶ原の戦で西軍に与し、鳥取城は東軍側に攻められ開城する。
 関ヶ原の戦後の慶長5年(1600)に池田恒興の三男で、関ヶ原の戦で功をあげた池田長吉(いけだながよし)が6万石を拝して鳥取藩主となる。長吉は山麓の居館部を大幅に改修して中枢部とし、山上の山城部分も総石垣に改修。9年余りの歳月をかけて、近世城郭に改築する。長吉は慶長19年(1614)に死去。家督は長男の長幸(ながよし)が継ぐが、元和3年(1617)長幸は6万5千石に加増されて備中松山藩に転封される。
 代わって鳥取藩主には姫路藩主池田光政が32万石で転封されて着任する。この時光政は8歳であった。姫路藩42万石から鳥取藩32万石へ減封のうえ国替えとなったのは藩主が幼少であったことが理由とされる。
 寛永9年(1632)備前岡山藩の池田忠雄が死去し、その子光仲が3歳で家督を継ぐが、山陽道の要衝である岡山を治めがたいという理由で鳥取藩32万石へ国替へとなる。同時に鳥取藩主の池田光政が岡山藩主としてへ31万5千石で入れ替わる。この後は光仲の家系が明治維新まで引き続き鳥取藩主として継承される。(2018年7月24日)


鳥取藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長5年
(1600)
6万石 池田長吉(外様)近江国より入封 池田長吉は池田恒興の三男。関ヶ原の戦の功により大名となる。城を近代城郭に改修。
元和3年
(1617)
32万石 池田光政(外様)播磨姫路より入封  
寛永9年
(1632)
32万石 池田光仲(外様)備前岡山より入封 池田光政は備前岡山へ転封 

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