城ある記
鳥取から米子までJRの特急で約1時間。空調も利いて快適である。車窓に流れる日本海を眺めながら少しウトウト。朝が早かったせいか、それとも鳥取城の山上の城の探索で疲れたせいか、眠い。もやもやとした気分がそうさせるのか、車窓を流れる景色が何となく懐かしく見える。以前、といっても20代後半の頃だから40年ほど前のことだが、同じルートを車で走ったことがある。城崎温泉から倉吉を経由して大山、蒜山高原に向かう途中の事だったと思う。車と列車とでは見える景色も違うだろうから、その時に見た景色と同じであるはずはないのだが、そして鮮明に記憶に残っているわけでもないのだが、懐かしく思うのは、やはり年老いたせいか。
山陰地方を訪れたのは、私の人生の中ではその時が初めてで、そして今回の旅行まで一度も訪れたことがなかった。鳥取城もこれから訪ねる米子城、松江城も訪れることはなかった。初めて訪ねる場所へ赴くのは、年齢には関係なく若い時と同じように気分が高まる。新しい発見は、それが何であろうと心を豊かにしてくれる。過去と今とをつなげる必要はないのだろう。年齢を重ねたことが自慢になるわけでもない。自分の慰めに過去を振り返るのは止めることにしよう。”青春だけで生きるなら 想いでなんか邪魔になるだけさ”と歌の文句にもあった。などなどと、半分眠った思考は時々に意味不明に混乱する。
米子駅について、旅行鞄を駅のコインロッカーに預ける。ここから米子城まで歩く。大した距離ではないと思って歩き始めたが、照りつける太陽の陽射しに汗がにじむ。幅広のつばの帽子をかぶってはいるが大した効果がない。人通りの全くない道を、ぶつぶつ独り言を声には出さず念仏のように唱えながら、30分ほどで米子城二の丸桝形門に着く。
この地に最初に城を築いたのは応仁の乱(1457〜1477)の頃で、伯耆の国を支配する山名氏の一族とされる。米子は出雲と伯耆の国境にあり、東軍側の出雲の京極氏と西軍側の伯耆の山名氏が争う係争地であった。その後、大永4年(1524)頃に京極氏の一族で出雲の守護代職にあった尼子氏が米子城を攻略。永禄5年(1562)頃に毛利氏の尼子攻略に伴い、米子城は再び山名氏が支配することなる。しかし永禄12年(1569)に毛利方の吉川元春に攻められて落城。元春は配下の武将を城代とする。
天正19年(1591)東出雲、隠岐、西伯耆を支配した吉川広家が城主となる。
米子城は東に位置する飯山と峰続きの湊山に築かれた山城。戦国期の米子城は飯山に築かれていたが、吉川広家は飯山を取り込む形で新たに湊山を本丸として築城を始める。本丸に三層四重の天守を築くが、城は未完のまま慶長5年(1600)の関ヶ原の戦となり、戦後に広家は岩国に転封される。
広家に代わり、駿河府中城主であった中村一忠が17万5千石を領して入封。一忠は入封時11歳であったため、家康の命で叔父の横田村詮(内膳)を家老として同行させた。横田内膳は城下町を整備し築城工事も続行する。
城は慶長6年(1601)に一応の完成をみる。標高90mの山頂を本丸とし吉川広家が築いた四重の天守の横に望楼型の四層五重の天守を建てる。北西の峰に内膳丸。山麓に2の丸、その下段に3の丸を置いた。2の丸には藩の役所が置かれ、桝形門によって守られている。3の丸は厩舎、米蔵、番役人の詰所などの建物が並び外周には内堀を廻らせていた。米子城は山上に二つの天守がそびえる山陰でもっとも豪華な城郭となった。
横田内膳は幼少の藩主に代わり藩政を行うが、慶長8年(1603)これに反発する重臣の陰謀により一忠は内膳を謀殺。家康の命で家老となった横田内膳を謀殺したことで幕府は首謀者を即刻に切腹させ、また慶長14年(1609)城主一忠が無嗣で急死したため改易される。
慶長15年(1610)美濃黒野4万石の藩主であった加藤貞泰が6万石に加増されて入封する。しかし元和3年(1617)因幡、伯耆で32万石を領して鳥取藩主として入封した池田光政に関連して、加藤貞泰は伊予大洲へ転封となる。米子藩は鳥取藩領となって廃藩となり、米子城は鳥取城の支城となる。 |