日本の城ある記(山陰の城・松江城) 

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 松江城 (まつえじょう) 


ある
 前日の夕刻に松江に着いて、すぐに宿泊する駅前のビジネスホテルに入る。予定ではこの後で宍道湖の夕日を見ることにしていたが断念した。昨日は早朝から鳥取城を見学してから米子城へ行き、更に安来で三重塔がある清水寺へ行った。普段ならこの程度の行動でバテるようなことはないが、今回は特別だ。このところの暑さは異常である。
 そんな訳で昨夜は早くにベットに入る。そのお陰で今朝の寝覚めはいい。疲れも回復したようだ。そうなると欲も出る。人の姿が少ないうちに松江城を写真に収めようと、昨日と同じように早朝に宿を出る。

 松江城は宍道湖と中海をつなぐ太橋川の近く、亀田山に築かれた平山城。戦国時代、亀田山には末次城という土塁で築いた小規模な城郭があったという。その跡地に松江城を築いたのは堀尾忠氏とその父吉春。忠氏は父親の堀尾吉春の隠居によって家督を継ぎ遠江浜松12万石をの城主であった。関ヶ原の戦で武功をあげたことから慶長5年(1600)24万石に加増されて出雲に入封する。(加増に伴い父吉春が受け取っていた越前での5万石の隠居料は取り消される)
 当初、忠氏は月山富田城を居城とするが、山城であり、出雲全体を治めるには地理的に不利な場所にあり、また24万石の城下町を整備するには狭いことから移転を決意。慶長8年(1603)に新城築城の許可を得る。ところが慶長9年(1604)に忠氏が27歳で急死。家督は嫡男の忠晴が継ぐが幼少であることから吉春が事実上の藩主として采配をした。
 松江城の築城は慶長12年(1607)に開始され、慶長16年(1611)に完成する。亀田山は標高28mの低山だが、南は入り海、東は沼地、西は深田が広がる天然の要害。丘陵の最高地に本丸を配し、宍道湖に向かって階段状に二の丸、三の丸を置く。本丸、二の丸は内堀で囲まれ、三の丸は方形の独立した曲輪で、ここには居館を建てた。本丸は周囲を多聞櫓で囲み堅固な造りになっていた。本丸に築かれた天守は山陰地方に現存する唯一のもの。外観は4層で、内部は5階。南側正面に付櫓があり、ここが入口となっている。  吉春は城が完成した慶長16年に死去。忠氏を継いだ忠晴
は22年間松江城の城主であったが、寛永10年(1633)に死去する。忠晴には嗣子が無く、堀尾家は三代で断絶する。 代わって寛永11年(1634)若狭小浜から京極忠高が入封する。しかし忠高も寛永14年(1637)に嗣子が無いまま没する。
 寛永15年(1638)信州松本から松平直政が18万石を拝して入封する。直政は家康の次男・結城秀康の三男。以後は直政の家系が明治維新まで松江藩の藩主を務めることになるが、藩の財政は直政から6代目の「宗のぶ」まで破産状態であったという。明和4年(1767)に7代目を継いだ治郷(不昧=ふまい)の代になって、家老職であった朝日丹波の働きにより藩政改革が成功し、50万両余りの借金を完済したという。
 藩財政が好転し余裕ができたことで不昧は茶道の不昧流を興す。松江に楽山焼きを復活させるなど、文化の町・松江を象徴する藩主であったようだ。(2018年7月25日)
 
   

松江藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
堀尾目結 慶長5年
(1600)
24万石 堀尾忠氏(外様)遠江浜松から入封 当初は月山富田城を居城とするが、松江に新城の築城を始める
寛永11年
(1634)
26万4千石 京極忠高(外様)若狭小浜より入封 寛永10年(1633)堀尾忠氏の嫡男・忠晴が嗣子無く死去。改易となる。 
寛永15年
(1638)
18万6千石 松平直正(家門)信濃松本より入封 寛永14年(1627)京極忠高が嗣子無く死去したため改易となる。 

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