日本の城ある記(山陰の城・月山富田城) 

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 月山富田城 (がっさんとだじょう) 


ある
 JR安来駅から安木市が運営する(多分?)地域バスに乗って月山富田城を目指す。約40分の乗車で料金は200円。バス便がなければタクシーを利用するつもりだったが、おそらくその料金はバス料金の10倍以上であったに違いない。運行本数が少ないのが難点だが私のような貧乏旅行者には恵のバスだ。とはいえ乗客は私を含めて4人。途中で3人降りたので月山富田城まで乗車していたのは私一人。なんだか申し訳ないような気分にもなる。バスを降りた場所は歴史資料館の前。この資料館の横に月山への登り口がある。
 月山富田城は月山(標高約190m。別名・吐月峰)の頂上最高所に本丸を配した典型的な山城である。平安時代、あるいは鎌倉時代初期からこの地には砦が築かれていたようだが、詳細は分かっていない。鎌倉幕府の御家人である佐々木義清が承久3年(1221)の承久の乱の功により出雲・隠岐の守護に任ぜられて月山富田城に入ったとされ、このあたりから資料的に確認されているようだ。
 南北朝時代には山名氏が、室町時代には京極氏が出雲守護を務め、月山富田城が(その守護代)の居城となった。
 月山富田城がもっとも華やかであったのは京極氏の守護代尼子氏の時代とされる。
応永2年(1395)出雲尼子氏の祖とされる尼子持久が京極氏から守護代に任ぜられる。以後代々尼子氏が守護職を受け継ぐ。
 文明10年(1478)頃に家督を継いで出雲守護代となった尼子経久は次第に国人衆と結びつきを強くし独立色を強めていく。しかし主家京極氏の寺社領を押領したり幕府の公用銭の納付を拒否したりしたため文明16年(1484)守護代職を解任させられる。ただし出雲での勢力は維持しており、文明18年(1486)に月山富田城を奮回する。明応9年(1500)には守護代の地位を回復。天文6年(1537)尼子晴久が家督を相続。
 天文12年(1543)大内・毛利の連合軍に月山富田城が包囲されるが、尼子勢はこれを撃退する。この戦で事実上敗軍となった大内氏は衰退への道を辿る。
 天文21年(1552)には室町幕府将軍・足利義輝より山陰山陽8か国(出雲、隠岐、伯耆、因幡、美作、備前、備中、備後)の守護を任ぜられる。
 永禄8年(1565)大内氏に代わって勢力を伸ばした毛利氏が月山富田城を包囲。尼子氏は籠城して抵抗するも翌永禄9年に兵糧が尽き開城する。尼子氏の出雲支配はこれで終焉する。以後は毛利氏の臣下が月山富田城の城主となる。
 天正19年(1591)毛利氏の一族吉川広家は豊臣秀吉より出雲、伯耆、安芸、隠岐で14万石を拝領し、月山富田城を居城とする。

 慶長5年(1600)関ヶ原の功により遠江浜松の城主であった堀尾忠氏が出雲・隠岐23万5千石の領主として月山富田城に入る。忠氏は松江城を築いて居城を移転する計画をするが、慶長9年(1604)に急死。忠氏の長男・忠晴および忠氏の父・吉春によって松江城の築城が開始され、慶長11年(1611)に完成した松江城に居城を移す。これによって月山富田城は廃城となった。
 月山富田城への登城ルートは私の手元のガイドブックには「菅谷口」「御子守口」「塩屋口」の3カ所があると書かれている。歴史資料館横の登城口の案内には単に登城口とあるだけだが、縄張り図から判断すれば御子守口であろう。御子守口は中山御殿の大手口につながっている。
 しばらくは舗装された車道のような登城路を進み、途中から千畳平に抜ける道に入る。千畳平は名前の通り広々とした曲輪。ここには陣太鼓などを備えた櫓が建っていたと思われる太鼓壇がある。また山中鹿之助の銅像もある。あまりにも広いので山城の雰囲気がないが、守りの曲輪ではなく攻めの曲輪としての役目であったと思われる。兵士の駐屯地であったり、出陣の際の兵士の士気を高めたり隊列を整える拠点であったのだろう。
 千畳平から奥書院と名前の付いた曲輪に出て、さらに進むと花の壇に至る。それぞれの曲輪との高低差はあまりない。花の壇からは御子守口からの登城路を見下ろすことができる。花の壇は草花が植えられていたからこの名前が付けられたと思われるが、御子守口から山中御殿へ侵入する敵を待ち構え、弓矢・鉄砲で狙撃するのに格好の場所である。曲輪につけられた優雅な名前とは違い、その役割は軍事的なものでしかなかったに違いない。花の壇には番小屋に模した小屋が復元して建てられている。ここから本丸のある月山頂上への急斜面を目にすることができる。
 花の壇から山中御殿へ行く途中に深さ5mほどの堀切がある。尾根道を通って進むと月山富田城の中心部と言える山中御殿にでる。山中御殿は周囲をすべて石垣で囲まれ、虎口は桝形門で守られ、石垣の上には多数の櫓が築かれた堅固な曲輪であったという。曲輪は千畳敷に匹敵するほどの面積、あるいはそれ以上であり、曲輪内部は多くの建物があったと推定されている。
 山中御殿から月山頂上を目指す。七曲がりと言われる急勾配の登城路を上る。戦国時代の様子は分からないが今は舗装された登坂路で、傾斜はきついがゆっくりと進めば難なく頂上に到達できる。山頂は東西に細長く、三の丸、二の丸、本丸へ続いている。これらすべての曲輪は石垣によって補強されている。二の丸と三の丸との間には幅20m、深さ7mほどの堀切で区切られている。本丸の一番奥に勝日高守神社が鎮座し、神社は築城以前からあったと伝えられている。本丸の中ほど北側に2基の石碑がある。風化して文面はよく読めなかったが、ここで散った兵どもの魂を鎮める墓標のように静かに佇んでいた。(2018年7月25日)
 


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