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石見 津和野城


ある
 JR津和野駅に着いたのは朝の8時15分。路面は濡れているが心配した雨は止んでいる。曇り空だが天気予報の雨マークは消えている。
 津和野城は標高362m(比高200m)の霊亀山(れいきさん)山頂に築かれた山城。中国自然歩道またはお城の直下から大手道を辿って登城することも考えたが、結局お城近くまで通じている観光リフトを利用することにした。リフトの営業は9時から。乗場は津和野駅から歩いて2、30分の距離。まっすぐ行けば早すぎるので城下町の街並みを見ながらの回り道をしてゆく。
 城址に着いて、残念なことは石垣などの危険個所を補修中であったこと。あちらこちらに工事中のロープが張られたり、迂回路の足場が組まれている。安全のためには仕方がないことだと納得するしかないが、このあと再び訪れることはない年齢でもあるのでちょっと恨めしい。まあ、写真写りが悪いことは我慢しよう。どうせ素人のピンボケ写真だ。今日一日雨が降らなければそれでいい。
 リフトの終着点から城址まで20分ぐらい。途中の出丸(綾部丸)は一部石垣が崩落していて立ち入り禁止。万代の池もロープが張られていて、上から眺めるだけ。もっとも池の跡らしい窪地があるだけなので近くに寄って見るより遠くから眺めた方がより地形を把握できる。

 東門(大手門)から津和野城の主郭に入る。門を入って(迂回するように組まれた足場を通る)右手に三段に積まれた石垣が目に入る。左手は二の丸下に造られた腰曲輪。ここを通って行くと隠し門に出るようだ。右手に進み三段櫓の石垣を見ながら天守台石垣の下に出て馬立跡、台所櫓跡、海老櫓跡へ向う。
天守台石垣下から見た馬立跡方面、右に三段櫓に石垣 天守台上から見た馬立跡方面
 馬立(うまたて)、台所櫓、海老櫓(えびやぐら)のある場所は本丸から西に伸びた尾根上に築かれた郭。坂を上がって右に三段櫓の最上部の櫓跡。左に馬立の跡があり、馬立跡の先に台所櫓跡、海老櫓跡と続いている。
 天守台石垣の下に戻り、西尾根の郭と西門櫓の間に西門跡の標識がある。門の先は勾配のきつい斜面になっているだけで道跡がはっきりしないが、永仁3年(1295)最初に霊亀山に城が築かれた当時は西門が大手門であったとされている。大手道は現在と反対の西側山麓の喜時雨(きじう)集落に通じ、城主の居館もそこに存在していたようだ。
 海老櫓跡から台所櫓跡方面を見る  台所櫓跡から天守台、三十間台方面を見る

 西門から天守台へ。天守台はほぼ四角形。南北に40m、東西に約30mほどの広さ。
 天守台の東側の5mほど段差を登ると「三十間台」と呼ばれる郭が現れる。三十間台はその名前の通り南北に約60m(約三十間)、東西に20m〜40mの広大な広さの郭。ここからは東西南北全てを見渡すことができる。
 三十間台の北端の虎口から太鼓丸へ。さらに三十間台の石組に沿って下り、二の丸に出る。ここから再び天守台の下に出て三の丸へ向う。
 
 三の丸から三十間台の石垣と南に一段下がって築かれた人質郭の高石垣を眺めることができる。三の丸の南端には南門が築かれている。南門からは尾根伝いに南出丸、中荒城と続いている。ただし時間の都合でここで折り返す。帰路は東門を出て大手道を下る。(2022年3月12日)

 霊亀山に最初に城郭を築いたのは永仁3年(1295)源頼朝一族の流れを継ぐという吉見頼行。頼行は西石見地域の地頭としてこの地を支配していた。城は約30年掛けて正中元年(1324)に頼行の子・頼直の代になって完成したようだ。当時の城郭は他の山城と同じく石垣を用いず土の城であったと思われる。吉見氏は津和野城(吉見氏時代は三本松城と呼ばれていた)を14代にわたって居城にした。
 戦国時代の吉見氏は周防山口を本拠とする大内氏の傘下として石見地方の国人領主として勢力を維持。天文20年(1551)大内義隆が家臣の陶隆房(後に晴賢)の謀反により打ち取られると、天文22年(1553)吉見氏の当主・吉見正頼は陶晴隆打倒を掲げて挙兵。天文23年(1554)3月陶晴賢は2万の軍勢で三本松城を包囲。同時期に安芸吉田を本拠とする毛利元就は陶晴賢が石見に軍勢を集中すきを見て、安芸国内の大内・陶傘下であった諸城を攻略する。三本松城は陶軍の猛攻にも耐えて落城せず、また毛利氏が安芸国で勢力拡大し周防にも侵攻する状況となり陶晴賢は9月になって吉見氏と和睦して山口に引き上げる。
 山口に戻った陶晴賢は毛利打倒の準備に入り、弘治元年(1555)に厳島で毛利軍と戦うが大敗する。吉見正頼は毛利元就の防長経略に呼応して山口に侵攻。陶氏が滅亡後、吉見氏は毛利の傘下となり長門にも勢力を伸ばす。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で毛利氏は西軍の総大将として参陣するも敗北。中国地方8国から防長2国に減封となると、吉見氏も津和野を退去して萩に移る。
 吉見氏に代わり東軍に属して戦功のあった坂崎直盛が3万石(後に4万3千石に加増)で入封。坂崎氏は津和野城を石垣を用いた近代的な城郭に大改修。大手を現在と同じ東門に移し出丸や三層の天守を築いた。しかし直盛は元和2年(1616)千姫事件を起こし自害する。
 元和3年(1617)因幡鹿野藩から亀井政矩が4万3千石で入封。政矩は山麓に居館を築き、城下町を整備する。以後亀井氏は明治維新まで藩主を務める。
 

 物見櫓  馬場先櫓

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