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美作 津山城

訪問記
 二日前の天気予報は晴れ時々曇りだった。津山に着くと雨になっていた。このところ旅に出るとよく雨に降られる。以前は晴れ男だと自慢もしていたが、如何やらそれは過去の話になってしまったようだ。ちょっと口惜しいが、それでも、負け惜しみではなく雨の風情もなかなかいいものだと思うようにもなった。きっと歳をとった所為なのだろう。写真を撮るには都合が悪いが、小雨に煙る古城の姿など青空をバックにした姿とは違った魅力もある。
 津山城を訪れたのは二度目である。とはいえ最初に訪れたのは40年も昔のこと。一昔も二昔も前のことだ。その時は美作にある湯郷温泉が主たる目的地で、そこから蒜山高原に向かうルート上にあったのでついでに立ち寄ったもの。その時の記憶にある津山城のイメージは高石垣に囲まれたひっそりと佇む巨大な城跡だった。今回訪れて、石垣の巨大な城のイメージは同じだが備中櫓が復元されている分、華やかさが加わった感じだ。いずれにせよ前回訪れた時に感じた石垣の重量感に圧倒される思いは同じだ。記憶に残る津山城と、いま目にしている津山城にさほどの違いのないことに安心する。しかし、城内いたるところで尾張生れで津山藩の家臣となった歌舞伎者の祖とされる名古屋山三郎のイラスト看板が目につくのは閉口する。私には安酒屋の呼び込み看板のように見えて城のイメージを損なうように感じるのだが、それは私だけの思いで、こうしたものを喜ぶ訪問者も沢山いるのだろうか。
 今回は城内だけでなく城の周りを一めぐりしてみた。城跡から少し離れた場所に造られた大名庭園である衆楽園へも立ち寄った。傘をさしての見学だが、落ち着いた街並みの姿を堪能することができた。(2014年10月20日) 
 津山城のある鶴山に最初に城を築いたのは室町時代の嘉吉年間(1441~1444) 、石見・美作国の守護大名山名教清の一族・山名忠政とされる。しかし応仁の乱などで山名一族が衰退すると津山城も廃城となる。戦国時代末期、津山城のある美作国および備前国一帯は宇喜多直家が支配し、さらにその子宇喜多秀家が豊臣秀吉の庇護を受けて支配するが、宇喜多一族の居城は備前岡山にあった。秀吉の死後1年を経て関ヶ原の戦が起こり、宇喜多秀家は西軍に与して戦い、その結果宇喜多家は滅亡し、代わりに関ヶ原の戦で西軍を裏切った小早川秀秋が備前・美作を領有することになる。その小早川秀秋も岡山城を居城とするが、2年後の慶長7年(1602)に病死する。小早川家は無嗣のために断絶となる。その翌年の慶長8年(1603)に備前・美作は分割されて、美作一国18万6千石の領主として森忠政が入封し津山藩が立藩する。美作に入封した忠政は居城として津山から5k程東に位置する院庄で築城を始める。この工事現場で、忠政はかねてより意見の相違があった重臣の井戸宇右衛門を殺害することを名古屋山三郎に命じる。井戸と山三郎はもともと互いに憎悪していた関係であったようだ。山三郎は逆に井戸に切られるが、井戸も忠政の命を受けた家臣に斬殺されるという事件が起きる。築城工事は中断したが、慶長9年(1604)築城場所を院庄から鶴山(改称して津山)に移して再開する。
 築城工事は13年の歳月をかけ元和2年(1617)に完成する。城郭の構造は梯郭式平山城と分類される。津山盆地の中央部に位置し、城の東部を宮川が流れ、丘陵の断崖を天然の防御としている。また他の三方には水掘りと空掘りで囲んだ外郭を設け、鶴山全体を高石垣で囲む。

 天守は五層で、波風を付けない層塔形の天守であったという。本丸には大小31棟の櫓があげられ門は15棟あった。また本丸には約70の部屋のある御殿も建てられた。二の丸には12の櫓、門7棟。三の丸には17の櫓、11棟の門が建てられた。ただし三の丸の建物群は幕府による新規築城が禁止された為に未完成であったという説もある。18万石の城としては過剰防衛とも思える規模の城郭を築城した森家も元禄11年(1697)に改易となる。本丸御殿が文化6年(1809)に焼失したが(翌年には再建される)、それ以外の城郭建物に損傷はほとんどなく明治維新を迎える。しかし明治7年(1874)に全ての建物は競売に付されて取り壊される。平成16年(2004)に本丸備中櫓が復元された。

津山藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
慶長8年
(1603)
18万6千石 森忠政(外様)信濃松代より入封  
元禄11年
(1698)
10万石 松平宣富(家門)入封 松平宣富は祖父が家康の二男結城秀康である松平秀長の養子。 

衆楽園

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