日本の城ある記(山陽の城・岡山城)

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 岡山城  (おかやまじょう)

訪問記
 高校生の時の修学旅行で岡山城と後楽園に行った。もう半世紀近く前のことになってしまった。月日の流れるのは実に早い。多分、その時は岡山城は再建されていなかったと思う。まるで記憶にない。後楽園にしても、広い庭園であったことは覚えているが、強く印象に残るようなものは無かった。しかも、翌日は宇高連絡船に乗って高松の栗林公園も見学したので、どっちの公園であったのか記憶が混乱している。
 今回岡山城を訪ねたのは仕事のついでである。ついでではあるが訪ねることは最初から予定していた。従って、デジカメは忘れずにポケットの中に入れた。岡山駅の近くのビジネスホテルから歩いて岡山城に向かう。途中で出会う市内電車が懐かしい。場所は違うが、私も学生時代に市内電車で通学した。高校時代の思い出が甦ってくる。 
 岡山城の天守閣は特異な形をしている。歪な多角形をした天守台の上に4重6階の天守閣が建てられている。安土城を模したものともいわれているがどうだろうか。遠くから眺める天守閣は威厳に満ちた風格を備えているが、近く、本丸御殿跡から見る天守閣は、どうも奇抜なデザインの和風旅館のように感じてしまう。戦の為に造られた城というより、当初から客をもてなすための建築物のような気がする。岡山城を見学した後に後楽園に向かう。後楽園も、実際は城の備えの為に造られた城郭に一部であったのだろう。後楽園を歩いて、少しだけ昔を思い出した。花より団子、庭園より女子学生との会話に興味があった当時が懐かしい。(2010年6月12日)
  
 南北朝時代の正平年間(1346〜1369)に名和氏の一族が城を築いたのが岡山城の初めといわれる。当時この付近は旭川の河口の港町として栄えていた。戦国時代の大永年間(1521〜1528)には国人領主であった金光氏が居城としていたが、元亀元年(1570)宇喜多直家が金光氏を謀殺しこの地を支配。天正元年(1573)直家は岡山城を居城として城の改築と城下町の整備を行った。
 直家の子、宇喜多秀家は父の領地をほぼ継承して豊臣政権下で57万石の大大名となる。天正18年(1590)に城の大改修に着手し慶長2年(1597)に近世城郭の体裁を整えた城を完成させた。 
 金箔瓦を使用した4重6層の望楼型の壮麗な天守閣も建築された。また城下町の整備も行い、各地から商人を呼び寄せ経済の発展に力を注いだ。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、代わって家康の凋落策によって東軍に寝返った小早川秀秋が備前・美作52万石の大名として入封する。秀秋は入封後直ちに城の拡幅工事を行ったが、慶長7年(1602)に岡山城で急死する。嗣子がなかったため小早川家は断絶となった。
 慶長8年(1603)姫路城主池田輝政の子、忠継が備前38万石の領主として入封。忠継は慶長20年(1615)12歳で死去、代わって元和元年(1615)に忠継の弟、忠雄が淡路島より31万5千石で入封した。
 寛永9年(1632)忠雄の子、光仲が鳥取へ転封し、代わって鳥取城主であった池田光政が31万5千石を引き継ぎ入封した。光政は姫路城主利隆の子で、いわば本家筋の子。姫路城で生まれたが父の死後、元和元年(1615)に鳥取城主となっていた。これ以後幕末までこの一族が代々岡山城を継承した。

 岡山城の最大の特徴は本丸で、本段、中段、下段の三段によって構成される。天守は、外観五重、内部6階の望楼型天守で、天守1階の平面は不等辺5角形。2階は不等辺6角形。3階より上階は長方形となっている。天守台は東西に長い不等辺5角形で、平行になる辺はなく、こうした構造は安土城天守に似ている。
 貞享4年(1687)光政の子、綱政はこれより14年の歳月をかけて「後楽園」を造営させた。周囲を土塁と竹垣で囲み、庭園の形をとっているが城郭の役割も持たせている。
 

岡山藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
慶長5
(1600) 
51万石 小早川秀秋(外様)筑前名島より入封
慶長7(1602)小早川秀秋没。無嗣改易
 
 慶長8
(1603)
 28万石 池田忠継(外様)入封   
寛永9
(1632) 
 31万5千石 池田光政(外様)因幡鳥取より入封  

後楽園

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