日本の城ある記(山陽の城・三石城) 

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 三石城 (みついしじょう) 


ある
 岡山を早朝に出てJR山陽本線・三石駅に着いたのは午前8時少し前。三石駅は無人駅だがJR東日本のスイカが使える。いちいち切符を買う必要がないのは便利だ。駅舎を出るとすぐ前方に三石城本丸がある天王山(標高約290m)が見える。想像していた以上に高く険しい山城のようだ。
 駅を出て旧山陽道を岡山方面へ歩く。10分も歩かないうちに三石城址登山口の看板がある。軽自動車がやっと通れるほどの道幅で、登り口が民家の庭先を突っ切るような場所なので看板がなければ初めての来訪者には登り口を見つけることは困難。100%迷うに違いない。看板設置者に感謝。
 登り口に登山道の案内看板と地元の協力者が設置したパンフレット置き場があったが、残念ならがパンフレット入れの箱の中は空だった。多くの人が三石城を訪れているようだ。事前にネットで探して用意した縄張り図を取り出して登り始める。いきなり急こう配の坂を登ることになるが、要所要所には案内板や補助縄が設置されていて天候さえ問題なければ迷うことなく安全に登ることができる。これらはすべて地元愛好家が善意で整備した賜物のようだ。
 しばらく登ると「千貫井戸へ」の標識がある。わき道にそれて向うと崖下に「千貫井戸(底なし井戸)」の標識と直径2メートルほどの水を湛えた窪み(井戸)がある。覗いて見たが確かに底は見えない。真冬の季節でも水が絶えていないのは年中涸れることがない井戸(窪み)のようだ。もとの登山道に戻ってさらに進むと「本丸への近道」と少し先に「第一見張所へ5分」の標識がある。まずは第一見張り所へ向かう。
 見張所の名の通り、ここからは三石の街並みと旧山陽道(中世の西国街道?)が見渡せる。それに風もなく日当たりがよく休息するのに絶好の場所。朝食を取っていないので持参の菓子パンを頬張りながらしばし休息。
 
 第一見張から戻り「本丸への近道」の標識に従って勾配のきつい坂を登る。少し勾配が緩やかになったあたりから、行く手に石垣が見えてくる。三の丸の擁壁である。関東では南北朝時代、戦国時代初期の山城で石垣を見るのは稀だが東海、関西以西では早くから石垣が築かれているようだ。やはり素人目には土の城よりも石垣のある城郭は見ごたえがある。苦労して登り詰めた山頂に石垣の姿を見ると、その苦労が報われた気がする。
 三石城は連郭式の山城。段差を設けて三の丸、二の丸、そして山頂の本丸へと続く。本丸中央部には一段高く石を積み上げたような跡がある。また周囲に土塁は巡らせていた痕跡もある。本丸に設置されている案内板には居館址の表示がある。櫓や常駐できる屋敷が建てられていたのだろうか。本丸、二の丸、三の丸の面積は意外に広い。かなり大人数の兵が生活することも可能だ。水場も複数カ所あるようだから戦闘時だけでなく日常の生活の場でもあったのかもしれない。
 本丸から北に続く尾根には巨大な堀切が設けられ、その先の山頂部に郭が設けられ「鶯丸」と標識がある。鶯丸の北尾根にも堀切が設けられていて、鶯丸は独立した郭、出丸のような役割に見える。
 鶯丸から巨大な堀切に戻り、「大手門、馬場あとへ」の標識に従い、間道を通って大手門に向かう。本来の大手道がどこなのかよくわからないが、私は「本丸への近道」の表示に従って主郭に登ったが、そうしなければ大手口から主郭に入ることになっていたと思われる。この場合、三の丸の擁壁の石垣を見落とすことになっていたかもしれない。
 大手口にも石組の虎口が設けられている。当時としては侵入者を威圧するに充分な門構えであったと思われる。大手口を通り三の丸の下に出でる。ここには三の丸の下段に沿って細長い郭が設けられている。「馬場跡」の標識がある。馬場跡の先は行き止まりになっているので三の丸に登り返す。ここからは来た道を帰る。(2020年1月13日)
 三石に初めて城を築いたのは鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇による建武の新政が始まる前年の元弘3年(1333)、この地の地頭伊東大和二郎とされる。伊東氏は南朝方に加勢し、西国から京へ向かう北朝方を牽制した。
 正平10年・文和4年(1355)赤松則祐が備前守護に任じられると重臣の浦上宗隆が守護代として三石城に入城する。以後浦上氏が三石城を居城とする。しかし嘉吉元年(1441)に赤松氏の当主・満祐は室町幕府6代将軍足利義教を暗殺する。これに対して山名宗全を主力とする幕府軍が赤松満祐を攻撃し、満祐は敗北し自害する。これにより備前は山名氏の配下となり浦上氏の当主・則宗も三石城から撤退。浦上則宗は生後間もない赤松政則の養育に努め、赤松家再興に尽力する。長禄2年(1458)幕府は山名氏の勢力拡大を牽制する思惑から赤松氏の再興を認める。赤松政則は応仁の乱(1467〜)に乗じて播磨・備前・美作の支配権を奮取し、浦上氏も備前守護代に復帰する。浦上氏は赤松氏の重臣として権勢を拡大するが、これに対抗する勢力の間で争いが起こる。
 永正15年(1518)浦上氏当主の村宗は三石城に籠城し、赤松氏の当主・義村はこれを包囲。村宗は浦上氏を支持する国人などの支援で包囲網を敗走させ、赤松氏は守護としての権威を失墜。永正18年(1521)に赤松義村は浦上氏の手により暗殺される。これにより浦上村宗は播磨・備前を勢力とする戦国大名として名乗りを上げる。
 享緑4年(1531)浦上村宗の死後に家督をめぐり争いが起き、長男正宗が播磨、次男の宗景が備前を支配する分割統治となる。宗景は当初は三石城を居城とするが、天文23年(1554)に天神山城(岡山県和気郡和気町)を築いて移り、三石城は廃城となった。

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