日本の城ある記(山陽の城・備前 天神山城) 

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 天神山城 (てんじんやまじょう)

 天神山城への登城路は私が調べた限りでは3カ所。お城の所在地和気(わけ)町が運営するキャンプ場「和気美しい森」から入るルート、お城の西北端にある「天石門別神社」から登城するルート、侍屋敷を経由して本丸下に至る「天瀬口」ルートの三つ。天神山城は標高約400mほどの尾根上に築かれた山城。「和気美しい森」キャンプ場は天神山山頂の標高と大差なく、ここまで車で入ることができる。
 私が選んだのは「和気美しい森」からのルート。もっとも楽と思われるルートを選択。30代までは登山を趣味にしていたが、残念ながら今はその体力はない。岡山駅から山陽本線で和気駅まで行き、そこからタクシーを利用してキャンプ場まで上がった。訪れた日の和気町の予想最低気温は0℃。山頂はもっと寒いだろうと防寒対策をして出かけが、無風状態であったことも幸いして寒さは然程感じなかった。
 「和気美しい森」から天神山城(太鼓丸城)への入口にあった案内板(加工してあります)
 天神山城は東西に直線的に細い尾根で繋がった二の峰にそれぞれ築かれた二つの城からなる。「和気美しい森」からは東の峰に築かれた「太鼓丸城」を経由して西の峰に築かれた「本城」に至る。太鼓丸城が築かれている峰の方がが標高も高く天神山の山頂のようだ。太鼓丸城、本城を併せて長さ約1kにも及ぶ長大な城郭が築かれている。
太鼓丸城跡(狼煙台)にあった案内板の@太鼓丸城の部分(加工してあります) 
太鼓丸城跡(狼煙台)にあった案内板のA本城の部分(加工してあります) 
 正確な時間を計っていないが、歩き始めて10分も経たないうちに「堀切」の案内板があった。とすると、根小屋跡の曲輪を見過ごしてしまっていたのだろうか。ここまでの道の両側は樹木に覆われていてよく分からなかった。戦国時代に廃城となった山城であることを思えば明瞭でないことは致し方ない。案内板に従えばこの堀切は最初の郭との仕切りなのだろう。風化してはいるが堀切らしい痕跡はあり、その先は一段高くなっている。堀切を超えると尾根が広がった場所に出る。おそらく最初の郭なのだろう。
 最初の郭と本丸とされる郭とを仕切る堀切に出る。ここも風化が進んで険しさが感じられない。入口にあった案内板には堀切の先に出丸が表示してあったがルートがよく分からないので行くのを止める。
 本丸へ進んでみたが、ここも樹木に覆われていて広さが実感できない。それでも、ただ単なる幅広い尾根ではない雰囲気はある。本丸を出ると尾根は土橋を思わせる狭さになり、直ぐに巨石に覆われた尾根に変わる。その先には「石門」の案内板があった。自然の岩を利用したものだろうが、これが人工的に築かれたものなら大変な労力を必要としただろう。
   
 「石門」を過ぎると巨石が散乱した尾根に出る。「軍用石」の案内板がある。斜面を登ってくる敵兵に対して石を落して撃退するための石ということのようだ。落とされる方も大変だが、この巨石を落す作業も相当の力仕事になりそうだ。
 「軍用石」の先に石組みの虎口のある郭が現れる。「太鼓の丸城」の案内板のある広い郭。これまで見てきた郭と違って樹木で覆われていない。ここからは南側の吉井川、北側の田土などの集落を見渡すことができる。
 案内板には『室町時代以前に、日笠青山城の出城として日笠氏が築城したもので、浦上宗景の享緑四年天神山出陣の足掛かりとなり、天文時代より太鼓櫓として物見台の役目と家臣団集合の合図をした役目の櫓「人桝」と呼ばれ、東方に根小屋が有り搦手門となる。』と書かれている。浦上宗景の天神山出陣…とあるが、浦上宗景が新たに天神山城を築いて三石城から移ったのは天文23年(1554)頃では。享緑4年(1531)は宗景の父浦上村宗が「大物崩れ」で討ち死にした年ではなかったか。
   
 太鼓の丸を出ると道は急な下り坂となる。ほぼ直線的に下って、太鼓の丸城が築かれた峰と本城が築かれた峰の鞍部に出る。その途中には「上の石門」と「下の石門」と書かれた案内板がある。石垣を築いた痕跡が見られないが、自然石を利用した防御壁があったのだろうか。さらに下ると「亀の甲」の案内板がある。下から攻めてくる敵に対して投げる石を積んでいた場所のようだ。 
   
 太鼓丸城と本城を分ける峰の鞍部に出ると「水の手(田上へ)0.5kの標識がある。ちょっと迷ったが急坂を上り下りする体力消耗を考えて止めることに。この先の本城は急坂を登った先にある。まだ先は長い。
 本城への坂を登る。本城が築かれている峰方が標高は低いので太鼓丸城からの下りに比べれば難易度も距離も短い。丸太の階段を登り切ると、尾根が断ち切られた「堀切り」にでる。その上は「南の段」。南の段の奥には「南櫓台」が築かれている。
   
 南の段から本丸までは登り傾斜の尾根上に郭が連続して築かれている。「馬屋の段」「飛騨の丸下」「飛騨の丸」と続く。それぞれの郭は石垣で補強されている。案内板によれば飛騨の丸は浦上氏の重臣・明石飛騨守の屋敷があった場所とされる。明石飛騨守は天正2年(1574)に宇喜多直家が天神山城を攻めたとき、これに内応して浦上家滅亡に導いた人。
 飛騨の丸と本丸の境は侍屋敷、天瀬登城口に下る道への分岐点になっている。
 「本丸」は飛騨の丸より一段高い位置にある。東端には天津社の社跡があるが、築城時に山麓へ移転し現在の天石門別神社となっている。
 本城は断崖絶壁上の幅10〜20m、長さ約450mの狭い尾根上に築かれているが、本丸とされる主郭は長さ約55m、幅約20mの規模を誇る。近年の調査で本丸北側に伸びる尾根および南側斜面にも郭が築かれていることが確認されている。見かけ以上に強固な防御策を持った城郭である。
   
 本丸と二の丸の間は幅約10m、深さ約3mの空堀で仕切られている。二の丸へには虎口と思われる石積もあった。二の丸からは階段状に造成された「長屋の段」へ続いている。
 長屋の段からは2m程の石積みの段差がで区切られて長さ約120m、幅約20mにも及ぶ「桜の馬場」と呼称される郭に続いている。「桜の馬場」はこの城郭で最大の郭。居館などの設備があったと考えられており、大手門、百貫井戸、鍛冶場の案内板も設置されている。
 桜の馬場から下ると「三の丸」の郭に続く。さらに下段には「西櫓台」「下の段」に続いている。天神山城の西限は「下の段」のようだ。「下の段」と最高点である「本丸」との高低差は70m程と聞いたが、距離が長い所為か緩やかに下っているといった感覚だった。
 三の丸には休息所がある。昼時には少し早いがコンビニで購入したオニギリを頬張る。帰りはもと来た道を戻らず三の丸から「河本登山口」へ降りることにした。登より下る方が大変だと思うような岩場の急坂が続く道だったが、何とか無事に下山した。滞在時間は和気美しい森をスタートして下山するまで約2時間30分ほどだった。(2021年3月3日)
 天神山城を築いたのは浦上宗景(うらがみむねかげ)であることに疑問の余地はないが、天神山の東西二つの峰に築かれた城は構造が同じではない。西側に位置する峰に築かれた城(本城)は尾根上の全面を利用し大規模な堀切や階段状に整地された郭が連立して並び、急峻な斜面にも郭を築くなど強固で大規模な城郭である。これに対して太鼓丸城と呼ばれている東に位置する峰に築かれた城は自然の地形を利用した簡素な造りになっている。また天神山の最高所は太鼓丸城のある東側の峰の方である。このことから太鼓丸城の方は西の峰の本城よりも先に築城されたとする説がある。さらに天神山と3km程離れた峰続きに日笠青山城がある。確証はないが日笠青山城は天神山城(本城)よりも先に地元の領主日笠氏が築いた城で、太鼓丸城は日笠青山城の支城、出城であったという説もある。
 天文20年(1551)浦上宗景は兄である浦上政宗と尼子晴久の備前侵攻の対応で対立。尼子氏に与した正宗に対抗して宗景は備前国内の国衆と結束し尼子氏と対峙する。天文23年(1554)頃に宗景はそれまでの居城であった三石城から天神山に新たに城を築きここに移っている。宗景は毛利元就と同盟を結び、尼子・正宗の軍を撃破して永禄3年(1560)頃までに備前の支配権を握った。
 同じころ毛利と同盟を結んで備中を支配下に置いていた三村氏が備前や美作に進出すに及んで宗景は毛利の庇護から独立し、三村・毛利の勢力を備前から駆逐し、さらに美作東南部を支配下におさめた。
 その後も積極的に勢力拡大に邁進した宗景は天正元年(1573)に織田信長から備前、播磨、美作3か国の支配権を認める朱印状を与えられるまでになる。しかし天正2年(1574)宗景と同盟関係であった宇喜多直家が毛利輝元の支援を受けて離反する。直家は着々と勢力を拡大し、天正3年(1575)には毛利輝元の軍勢も進出するにおよび、宗景は天神山城に籠城する以外に選択肢がなくなるほど追いつめられる。重臣の明石氏(飛騨守)らの離反もあり宗景は同年9月天神山城から逃げ落ちる。落城後の天神山城は宇喜多直家の軍勢がしばらく使用したようだ。

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