日本の城ある記(山陽の城・備前 金川城) 

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 金川城(玉松城)  (かながわじょう・たままつじょう)   

 
 金川城は宇甘川(うかいがわ)が旭川に合流する地点を俯瞰する臥龍山(がりゅうさん・標高225m)山頂部に築かれた山城。岡山県を南北に貫いて流れる旭川の水運と、吉備高原を横断して高梁へ抜ける陸路が通る交通の要衝に立地。
 この地に最初の城郭を築いたのは承久年間(1219〜1222)に相模国の松田十郎盛朝が承久の乱の戦功の恩賞として備前国御野郡宇甘郷を与えられ金川城を築いたという伝承がある。また「松田氏系図」によると鎌倉時代末期に後醍醐天皇が率いる南朝方に与して鎌倉幕府討伐の功をあげた相模国の御家人・松田元国が建武2年(1335)に備前国御野郡伊福郷を得、当初は富山城を築いて居城としたが、暦応2年(1339)に元国の子・元喬が金川城を築き居城を移したとする。
 一方、伊福郷の松田氏と宇甘郷(金川城を最初に築いた?)の松田氏は別系統の松田氏で、併存していたが、伊福郷の松田氏が金川城に移って両松田氏が併合して備前松田氏として一本化したという説もある。
 松田氏の系譜や金川城の築城年代については諸説あるが、文明12年(1480)頃に松田元成が居城を富山城から金川城に移転したのは史実らしい。その松田元成は金川城を拡充して連郭式の山城を造り上げる。備前国内では天神山城と並んで最大級の山城と言われたようだ。当時松田氏は備前国の西部を支配し、守護大名赤松氏や守護代の浦上氏と敵対していた。なお、三の丸ともされる道林寺丸は日蓮宗の寺院・道林寺が建立されたことによってこの呼称になったようです。
 永禄11年(1568)金川城は浦上氏の重臣(家臣ではなく独立した傘下の国衆)である宇喜多直家の軍勢に包囲される。当時の当主・松田元賢は籠城戦をよく戦ったが多勢に無勢で落城。松田氏はこれによって滅亡。金川城は宇喜多直家の弟、春家が入城する。天正9年(1581)毛利の軍勢から攻撃を受けるもこれを防いでいる。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で宇喜多氏は西軍に属して敗れ改易となり、宇喜多氏に代わって備前国を領した小早川秀秋は金川城を廃城とした。
 金山城は「玉松城」の別名がある。これは永正6年(1509)に当時の城主・松田元勝が歌道に優れ内大臣であった公家の三条西実隆から「玉松」の名を贈られたことに起因する。
 JR津山線の金川駅で下車して金川城の登城口の一つ七曲神社へ向かう。七曲神社は長禄元年(1457)ごろに松田氏の出身地相模国から招聘したとされる。登城口は神社の裏手にある。少し進むと治部ケ谷を経由して道林寺丸から本丸へ登城するルートと、遠回りになるが千鳥坂から出丸、二の丸を経由して本丸へ登城するルートに分かれる。千鳥坂のルートは岡山市御津支所から登城するルートと合流することになるが、直感的にこちらのルート方が体力的に楽そうに感じたので千鳥坂から登城する。急坂が続き距離は長いが丸太で階段がしっかりと組まれているので難なく登城できる。
 
 階段がようやく終わり、稜線に出ると最初の曲輪が現れる。案内図にある出丸。テーブル・ベンチも設置されているのでしばし休息。ここからは悠々と流れる宇甘川の姿が眺められる。
 出丸から二の丸へ。二の丸には「杉の木井戸」がある。金川城に三つある井戸のうちの一つ。周囲を石を組んで囲んでいたようだが、井戸の深さはよく分からない。縄張り図を見ると二の丸から延びる北東の尾根、南西の尾根にも階段状に曲輪が築かれているようだが、そちらへ向かうルートが分からなかった。そもそもそれら曲輪は一般人が容易に立入り出来るようには整備されていないのかもしれない。
   
 二の丸から本丸へ。二の丸と本丸は長さ約200m、幅約50mの尾根上に連なって設けられている。本丸は長さ約80m、幅約35mの広さがある。
 本丸には明瞭には確認できなかったが喰い違い虎口を二重に構えその間に枡形を設けている。この虎口は織豊系城郭の特徴で、宇喜多氏が支配していた時代に改修整備されたものと推定されている。
 本丸は周囲全体を土塁で囲まれていたらしくその一部が確認できる。土塁は石垣で補強されていたのか、崩れた石が散乱している。
 本丸北の一段下がった場所に岩盤をくりぬいた井戸「天守の井戸」がある。覗き込むのに恐怖を感じる(私は臆病か?)ほど深い。直径約8m、深さは約10mあるという。城下を流れる旭川に通じているとの噂があるようだが、そこまで掘削するのは無理だろう。
   
 本丸から北の丸へ行く途中の尾根の鞍部に「白水の井戸」がある。籠城戦にには水の確保が最重要課題。三カ所の井戸が案内図に記されているが、おそらくこれ以外の水場もあるに違いない。
 北の丸は60m×50m程の広さがある。北の丸の先には幅4m〜5mの堀切が二カ所設けられている。北の丸にも石垣の跡が見られる。
 北の丸の旭川方面の斜面の樹木が伐採され、重機が入って大規模に整地される工事が行われているようだが、何のための工事なのか気になる。発掘調査とは無縁の開発行為のように見える。簡単に登城できるように車道でも整備する工事なのだろうか。そうなら残念だ。
 
   
   
 本丸から南西に伸びる尾根を下る。この尾根には道林寺丸と呼称される10段ほどの曲輪が連なっている。先端部分には石垣で補強された曲輪があり、ここに道林寺が建てられていたともいわれている。帰りは治部ケ谷を下る。(2021年3月6日)
   

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