日本の城ある記(山陽の城・備中高松城)

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 備中高松城 (びっちゅうたかまつじょう)  

訪問記
 備中高松城は沼地に築かれた平城である。石垣は築かれず、城は土塁で囲まれていた。江戸時代になって城の役割を終えたので、土塁は崩されその遺構はほとんど残っていない。しかし高松城の歴史は長く語り継がれているようだ。現在NHKで黒田官兵衛を主人公とした大河ドラマが放送されている。その舞台の一つに備中高松城が登場し、このために訪れる人も多い。だが多くの観光客は落胆するに違いない。田圃に囲まれた平地を、ここに高松城があったと教えられても、普通の人には何の感慨も湧かないだろう。現に、私もしかり。もう少し城らしい風景が存在するのかと思ったが、期待はずれだった。もっとも、これ見よがしに作られたわざとらしい施設を見せられたとしても、感動などしないだろうから、むしろ何もない方が気分的にはいい。何もなければ勝手な想像もできる。戦国時代の武将になりきり、武と武ではない権謀術策の乱世を恨んでみよう。(2014年10月21日) 
 ここに最初に城を築いたのは備中松山城主・三村元親の家臣であった石川氏であったという。低湿地帯に囲まれた梯郭式の平城。比高僅か2mたらずの土地に築かれ、周囲の湿地を天然の堀としていた。三村氏は天正3年(1575)の”備中兵乱”で毛利氏に滅ぼされ、高松城も毛利氏の支配するところとなる。毛利氏の支配になって高松城城主には、かつては三村氏の家臣であった清水宗治が入る。清水宗治は備中兵乱の際に毛利方につき、小早川隆景の配下として従軍し、忠誠心厚く精励して毛利方の信頼を得た。
 天正6年(1578)織田信長は羽柴秀吉を総大将として中国攻めを開始する。秀吉は播磨に進出して黒田孝高(官兵衛)の居城姫路城を拠点とし、播磨を平定。次いで但馬、因幡を平定する。備前の宇喜多秀家も秀吉の傘下とすると、備前と備中の国境地帯が毛利軍と秀吉が大将の織田軍の主戦場となった。こにには毛利軍の防衛ラインである「境目七城」と呼ばれた城があり、その中心的な城が備中高松城である。
 天正10年(1582)3月になって秀吉は2万の軍勢で姫路を出陣。途中で宇喜多氏の軍勢1万を加えて3万の大軍となり、高松城の周囲の城を次々と陥落させて4月には高松城を包囲する。高松城には3千から5千の兵が立てこもっていた。圧倒的な軍勢である秀吉軍は2回にわたり攻撃を仕掛けるも城兵の逆襲を受けて敗退。そこで黒田官兵衛の策によって水攻めを敢行することになる。堰き止めの堤防は4キロにも及んだが、僅か12日で完成する。一方、毛利輝元は4万の軍勢を引き連れて高松城の援護に向かうが、5月21日に到着した時はすでに高松城は湖水の中の浮城の状態で、兵糧米を運びこめる状況ではなくなっていた。毛利方は外交僧の安国寺(エケイ)を仲介役として和睦することを試みる。秀吉は備中・備後・美作・伯耆・出雲の5カ国の割譲と清水宗治の切腹を条件としたためいったん交渉は決裂する。しかし、ここから事態が急変する。6月2日本能寺で信長は明智光秀に討たれる。6月3日夜、それを毛利に知らせるために光秀が送った使者が秀吉方に捕えられる。秀吉は信長の死が毛利方に知られる前に和睦を急ぎ、備中・美作・伯耆の3カ国の割譲と清水宗治の切腹を和睦条件とすることにし、宗治および毛利側もこれに応じた。秀吉は宗治の切腹を見届け、6月6日には京に向かって軍勢の移動を開始。歴史上に名高い”中国大返し”で光秀の追討に向かう。この後高松城は宇喜多領となり花房正成が城主として入城。関ヶ原の戦後には廃城となった。
 

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