日本の城ある記(山陽の城・備中松山城)

 山陽の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 備中松山城  (びっちゅうまつやまじょう)

訪問記
 津山を出て備中高梁(たかはし)に向かう。津山で降っていた雨は止んでいたが、空は厚い雲に覆われている。目指す備中松山城は標高430mの臥牛山にある。近頃は天空の城として人気のある備中松山城だが、それは雲海の上に浮かぶ姿であって雨雲の中にあっては何も見えず従って何の趣もない。この季節、秋から春にかけての早朝に雲海が発生する可能性が高いというが、今日は見ることはできなかったそうだ。もっとも天空の城見物はハナから予定していなかった。私の目的は実際の城郭に立ち入り見学すること。だが、この雨雲では城まで登っても何も見えないことも予想された。しかしここまで来たので取り敢えず上がって見ることにする。とはいえ麓から徒歩で登るのは時間も労力も必要である。事前に予約しておいた観光乗合タクシーを利用した。
 タクシーは本丸下のふいご峠まで。そこから約20分徒歩で登ることが必要だ。
 本丸に近づくにつれてモヤも濃くなってくる。初めて訪れた城なので晴れた日の様子は分らないが、ぼんやりとした空気の中に浮かんでくる石垣の様子も幻想的で面白い。雨になれば最悪だが、幸いに今は雨粒は落ちてこない。
 備中高松城も維新後は忘れられた存在だったという。山城であり、今は車で登れる道路もあるがしばらくは人が歩く程度の道しかなかったことが幸いしたようだ。麓の御根小屋の建物(藩主の住居・藩政の行われた場所)は取り壊されたが、小規模ながら天守とそれに続く櫓が取り壊されることなく残っている。維新後に他の多くの城郭に残った建物が競売されて取り壊されたが、ここでは取り壊す費用の方が多かったのだろう。昭和初期になって世の中が多少落ち着いた時代に城の建物は修復されたようだ。
 人気の城も天候が災い(幸い?)してか訪れる人も少ない。古城と呼ぶに相応しい環境の中で、その姿をゆっくりと見ることができた。(2014年10月20日)
 臥牛山は四つの峰から構成され、大松山、天神の丸、小松山、前山と呼称される。 現存する松山城はそのうちの小松山に築かれている。 
 ここに最初に城を築いたのは仁治元年(1240)この地の地頭であった秋葉重信とされ、大松山に最初の城を築いた。その後鎌倉時代、室町時代、戦国時代と城主が変遷し、戦国時代の三村元親の時代には大松山と小松山にまたがる砦21丸と呼ばれる一大要塞となっていた。
 天正2年(1574)三村元親はそれまで同盟を結んでいた毛利から離反し、織田信長と内通する。備中兵乱として語られる三村元親と毛利氏・宇喜多氏の戦いが始まる。毛利輝元は小早川隆景を総大将とする8万の軍勢を備中に送り、三村側の諸城を次々に陥落させる。最後に残った松山城は天正3年(1575)に陥落する。これにより戦国大名としての三村氏は滅亡。松山城は毛利氏の支配するものとなる。以後毛利氏の東方進出の拠点として城は維持される。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦ののちは一時的に幕府公領となり、小堀正次が代官として赴任する。正次が急死したため正次の子・政一が跡を継ぎ、政一は慶長11年頃ににかけて城の改修を行う。小堀政一は後に茶人として一世を風靡した小堀遠州のことで、青年期をこの城で過ごしている。
 現在に残る城郭は池田氏の後に入封した水谷氏によるもの。水谷氏は寛永18年(1641)に高梁川の水路を開削、寛文4年(1664)に城下町の町割りを整備。天和3年の水谷勝宗の時代に城の大改修を行い近代城郭として生まれ変わる。現存建物はこの時のもの。元禄7年(1694)水谷氏は無嗣除封となり、このとき播州赤穂藩浅野家が城を預かり、大石内蔵助が城番として滞在した。


備中松山藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
元和3年
(1617)
6万5千石 池田長幸(外様)因幡鳥取より入封  
寛永19年
(1642)
5万石 水谷勝隆(外様)備中成羽より入封 元禄6年(1693)水谷3代目城主・勝美死亡。その養子勝春が1カ月後に死亡し嗣子の擁立に失敗して断絶。 赤穂藩が城を管理。
元禄8年
(1695)
6万5千石 安藤重博(譜代)上野高崎から入封  
正徳元年
(1711) 
 6万石 石川総慶(譜代)山城淀より入封   
 延享元年
(1744)
 5万石 板倉勝澄(譜代)伊勢亀山より入封   

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.