日本の城ある記(山陽の城・備中 撫川城 庭瀬陣屋) 

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 撫川城 (なつかわじょう)  庭瀬陣屋 (にわせじんや)   

 撫川城・庭瀬陣屋(庭瀬城)はもとは一つの城。足守川河口に広がるに沼沢地に築城された典型的な沼城である。永禄2年(1559)に当地の国人領主・三村家親がこの地に城を築く。天正2年(1574)の「備中兵乱」のとき毛利軍の攻撃を受け落城。天正10年(1582)の備中高松城水攻めの時は毛利方の備中境目七城の一つとして重要な役割を果たすが、秀吉軍の攻撃で落城。廃城となった。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で戦功をあげた戸川達安(とがわみちやす)がその功により庭瀬を拝領して庭瀬藩を立藩。撫川城の跡地に陣屋を建てる。この時に法万寺川を境に撫川城址と庭瀬陣屋を分けたと推測。 
 掲載地図は岡山県教育委員会発行「岡山県中世城館跡総合調査報告書(備中編)」より引用
 撫川城  
 この地に最初に城を築いたのは永禄2年(1559)に三村家親による。家親は成羽城(鶴首城)、星田城などを支配下におく国人領主・三村宗親の子。宗親は永正5年(1508)大内義興が上洛した際に従った武将として記録がある。このころには三村氏は守護代クラスの力を持った国人領主であったと推測される。
 備中の守護であった細川氏の勢力が衰えると、国人衆が台頭し互いに勢力争いを繰り広げる。この中にあって三村家親は毛利元就と結び備中で勢力を拡大する。また備前で勢力を伸ばし、備中にも勢力を広げようとする宇喜多直家の侵攻に備えて撫川城を築き支城とした。家親は永禄4年(1561)には備中松山に侵攻し備中国をほぼ手中に収め、居城を成羽城から備中松山城に移している。さらに勢力拡大を求めて備前や美作へ侵攻するが、永禄9年(1566)美作に侵攻した際、宇喜多直家の配下に暗殺される。
 家親の跡を継いだ家親の次男・元親は宇喜多直家との勢力争いを引き継ぎ、一進一退の攻防を繰り広げる。しかし天正2年(1574)同盟関係であった毛利輝元は宇喜多直家とも同盟を結ぶ。これを不満とする元親は毛利氏から離脱して織田信長と通じて対抗する。これを知った毛利輝元は小早川隆景を総大将として8万の兵力で備中へ侵攻。「備中兵乱」の幕開けとなる。毛利軍は三村元親が籠城する難攻不落の備中松山城を後回しにして、三村側の諸城を攻めて次々と陥落してゆく。撫川城もこの時に毛利軍によって落城する。天正3年(1575)孤立した元親は備中松山城で自刃、三村氏は滅亡する。毛利氏の支配下となった撫川城には毛利氏の出城として配下の武将が守備する。
 天正10年(1582)羽柴秀吉の備中高松城の水攻めに際して撫川城は毛利側の境目七城(国境防備の城)の一つとして毛利氏の配下・井上就正が800人の軍勢で守備に就く。この時は宇喜多秀家(直家は天正9年・1581亡くなっている)は毛利ではなく秀吉の軍勢に加勢している。秀吉勢が撫川城を陥落させるとこの地は宇喜多氏の所領となり撫川城は廃城となった。
 現在撫川城址とされる曲輪には三神社が鎮座し、曲輪全体は撫川城址公園となっている。曲輪は東西75m、南北55mの長方形。北および東辺には土塁の跡が見られる。南西、西辺には石垣が良好な状態で残っている。また北西には櫓台と思われる石積も見られる。入口の門は陣屋の総門であったものを明治時代に移築したもの。
   
 庭瀬陣屋  
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦で東軍に与して戦功をあげた戸川達安(とがわ みちやす)が、その功により備中庭瀬に3万石を拝して庭瀬藩を立藩。撫川城の跡に陣屋を建てる。
 戸川達安は宇喜多秀家の重臣であったが慶長4年(1599)秀家側近の中村次郎兵衛と対立、これが他の宇喜多氏重臣を巻き込んでの御家騒動に発展する。この騒動に徳川家康が仲裁に乗り出す。戸川達安は宇喜多氏から離脱して蟄居処分を受けるが、後に家康の家臣となる。これまで達安は常に宇喜多軍の主力として 武勇、知略を発揮し数々の戦功を立ててきた。達安の実力を評価していた家康はお家騒動に介入して達安を家臣に取り立てたものと推測する。関ヶ原の戦では前哨戦の木曽川・合渡川の戦で一番槍の働きをするなど数々の戦功を挙げている。その後の大坂の陣にも参戦し武功を挙げ、徳川家臣として重用された。しかし四代目藩主の安風(やすかぜ)は延宝3年(1675)に家督を継いだが、延宝7年(1679)に僅か9歳で死去する。安風には当然子はなく戸川氏は無嗣断絶となった。安風の死後一時的に庭瀬藩領は天領となったが、天和3年(1683)久世重之が下総関宿から5万石を拝して入封、庭瀬藩の藩主となる。以後藩主は松平(藤井)氏、板倉氏へと代り、板倉氏が明治まで藩主を務める。
 代々の藩主は戸川氏が築いたと同じ場所を陣屋としたようだ。陣屋は東西、南北それぞれ200m程の規模と推定されている。周辺は宅地化が進み城址、陣屋址の明確な区別が困難でもあるが、陣屋の中心は現在の清山神社のある辺りと思われる。清山神社周辺の水路はかつての水堀であり、細かい路地が入り組んでいる町割りにはかつての陣屋の様子が残っている。(2021年3月3日)

庭瀬藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
慶長5年
(1600)
3万石 戸川達安(外様) 延宝7年(1679)四代目藩主の時、無嗣断絶
天和3年
(1683)
5万石 久世重之(譜代)下総関宿より入封 貞享3年(1686)久世重之転封
 元禄6年
(1693)
 3万石 松平(藤井)信通(譜代)大和興留より入封  元禄10年(1697)松平信通転封 
 元禄10年
(1699)
 2万石 板倉重高(譜代)上総高滝より入封  板倉氏は明治まで藩主を勤める 

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