日本の城ある記(山陽の城・福山城)

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 福山城  (ふくやまじょう)

訪問記
 尾道を出たとき雨粒が落ちてきたので福山では本格的な雨模様になると思っていたのだが、幸いにまだ雨は降り出してはいなかった。それでも雲の流れは速く、いつ降り出してもおかしくない空模様だ。空を眺めながら足を速めて福山城に向かう。とはいえ山陽本線の福島駅に隣接して福山城はある。足を速めて急ぐ必要もない距離だ。古地図を見ればおそらく駅舎が建つ場所や駅の構内はかつての福山城の侍屋敷や堀のあった場所に違いない。
 雨が降ればその時はその時と開き直りつつ、且つ、城跡見物がそれほどの大事なのかと自嘲しつつ、鞄に傘があるかを確認して城址公園への坂を登る。
 福山城は大規模な近世城郭としては最も遅く築城された城とされる。元和5年(1619)安芸・備後を領していた福島正則が改易され、正則の所領は分割されて、徳川家康の従兄弟にあたる水野勝成が大和郡山6万石から備後南東部と備中西南部で10万石を拝して入封する。従来、この地域には神辺(かんなべ)城があり、福島正則もこの地を治めるために神辺城に城代を配していた。しかし神辺城は南北朝時代から続く山城であり、現在の福山城から山側に約6km離れた地にある。また水野勝成がこの地に入封したのは西国の外様大名を監視する役目でもあり、西国街道と瀬戸内海の交通を支配する必要もあった。その為には神辺城は小規模であり、海からも遠く、城下町を備えた近世城郭を築くには不向きであった。
 福山城が築城された場所は芦田川の三角州にあり湿地帯や田畑が広がる地であった。城の中心部は標高28mの丘陵地に築かれ、城下町は外郭が取り囲む「総構」であった。城の南側、西側に主として侍屋敷を配し、町屋は東側を埋め立てて整備した。従来この地は野上村と称されていたが、城下町の整備に伴い福山と呼ばれるようになる。
 福山城の築城は芦田川の氾濫などもあり困難を極めた。それでも元和5年(1619)に築城を開始して元和8年(1622)には城が完成する。これには城の用材を神辺城や伏見城から転用し、工期を短縮できたことにもよる。伏見城からは現在も残る「伏見櫓」や「筋鉄御門」など多くの建物が移築されている。
 縄張りは本丸を中心として二の丸、三の丸が取り囲む輪郭式。本丸には2重の付櫓を備えた五重の天守があげられ、三重櫓7基、二重櫓16基、総延長291間の多聞櫓、楼門10基が林立する大城郭であった。10万石の大名の城としては異例の規模である。また天守北面の1階から4階までの外壁に厚さ3mmほどの鉄板が張られていたという。このため北面は白壁ではなく黒壁に見えたという。まお、復元された天守にはこの工法は取られておらず、四面が白壁である。
 水野家は5代続くが、元禄11年(1698)5代藩主水野勝岑が2歳で急逝したため無嗣徐封となり、一時的に幕領となる。この時に幕府による検地が行われ、福山藩は10万石から15万石に表高が変更される。5万石増加したのは水野氏の積極的な水田開発によるものと思われる。
 元禄13年(1700)に出羽山形より松平忠雅が10万石で入封(新しい石高15万石から5万石を減額)。忠雅は10年後の宝永7年(1710)に転封となり、代わりに下野宇都宮より阿部正邦が10万石で入封。以降、水野氏が明治まで藩主を務める。
 やはり何時雨が降り出すのかと気になる。ちょっと急ぎ足で、一時間ほどで城跡を一周。幸いに雨はまだ落ちてきていない。(2017年3月27日)

福山藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
元和5年
(1619)
10万石 水野勝成(譜代)大和郡山より入封 元禄11年(1698)5代藩主の時、無嗣徐封となるり、一時的に幕領となる。
元禄13年
(1700)
10万石 松平(奥寺)忠雅(譜代)出羽山形より入封
宝永7年
(1710)
10万石 阿部正邦(譜代)下野宇都宮より入封

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