日本の城ある記(山陽の城・三原城)

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 三原城  (みはらじょう)

訪問記
 広島から在来線に乗って三原駅で下車。改札を出て、新幹線と在来線の線路の高架下に作られた駅舎から三原城天守台へ行くことができる。いや、むしろここからでないと天守台には行けない構造のようだ。JRの線路、駅舎はかつての三原城を串刺しにするように造られている。
 三原駅で下車した目的は三原城の見学と、駅近くの三原港から瀬戸内海に浮かぶ生口島へ渡り、向上寺の三重塔を訪ねるため。三原城見学を後にして三原港から船に乗る。
 かつての三原城は瀬戸内海に面していた。しかし、今は埋め立てが進み、天守台の海側に作られた駅舎から海岸線までは歩いて10分ほどの距離にある。その間に城跡らしき遺構はないようだ。
 生口島は尾道から四国の今治をつなぐ「しまなみ海道」が通過する島。橋を渡っての行き来がどれほどあるかの知識はないが、三原から乗った連絡船(高速船?)は予想した以上に利用者がいた。船は今なお島民の生活の一部なのだろう。また、江戸時代は手漕ぎ船、帆船が縦横に行き来していたのではと思う。当時の三原城を海上から眺めることができたら、壮観な景色を堪能することができたに違いない。
 三原城は永禄10年(1567)頃に毛利元就の三男で、小早川家の養子となり家督を継いだ小早川隆景によって整備が始まった。沼田川河口の三原湾に浮か小島や砂州をつないで砦を築き、小早川氏が支配する水軍の拠点とした。天正4年(1576)頃から隆景は砦を本格的な城郭にする工事を行い、天正10年(1582)に隆景は三原城から15kmほど沼田川の上流にあった新高山城から三原城に居城を移す。三原城は梯郭式の縄張りを持つ近代城郭。本丸には壮大な天守台を北側に配置し、その東、西、南の三方に二の丸を配置。さらにそれを取り囲むように三の丸、東築出、西築出、を設けた台形状の城郭を築く。また本丸東南に船入櫓をあげて、軍港と城郭が一体となった構造であったという。満潮時には海に浮かんだように見えることから「浮城」とも呼ばれていた。
 天正11年(1583)以降、宗家の毛利家を含め小早川隆景は豊臣秀吉に従属し、天正13年(1585)の四国攻め、天正14年(1586)の九州征伐に従軍。さらに天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍する。また文禄元年(1592)に文禄の役が始まると隆景も朝鮮に出兵している。文禄4年(1595)には家康や前田利家と共に五大老の一人に任じられる。しかし同年に家督を養子の秀秋(秀吉の親族)に譲り三原城で隠居する。隆景は慶長2年(1597)に三原城で病死する。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦のあと、福島正則が安芸・備後49万8千石を拝して広島城を居城として入封。三原城はその支城とする。福島正則は三原城に養子の正之を城代として配し、三原城を大改修する。この時、海に面した城郭に10基の二重櫓をあげたとされる。元和元年(1615)の一国一城令後も三原城は存続が認められた。
 元和5年(1619)に福島正則が改易され、代わって紀伊和歌山から浅野長晟が安芸42万石で入封し、三原城は広島城の支城として一族で家老の浅野忠吉が城主となる。以後明治まで家老職の浅野家が在城する。(2017年3月27日)

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