日本の城ある記(山陽の城・広島城)

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 広島城  (ひろしまじょう)

訪問記
 広島を訪れたのはこれまでに2度ある。訪れた目的はいずれも仕事であった。2度とも新幹線でのトンボ帰りの出張であった。時間の余裕はなく仕事の合間に広島城に立ち寄ることはなかった。広島駅で降りて直ぐに訪問先に行き、用件が終わればその日のうちにすぐに戻る。もっとも時間的余裕があったとしても広島城を訪れていたかどうかわからない。確かな理由はないが、なんとなく仕事以外で広島の地で長居をしたくない気分でもあった。
 広島城の天守は太平洋戦争末期の昭和20年(1945)に原爆が投下されるまで存在していた。昭和15年(1940)時点で日本には20の天守が現存していたが、太平洋戦争の戦火で7つの天守が焼失し、昭和24年には松前城が火災により焼失している。結果、現在の現存天守は12城という。
 戦火により焼失したという意味では広島城も他の6城と変わりはない。他の焼失天守があった城跡には躊躇なく訪れている。それでも何故かこれまで広島城を訪ねるという気持ちが湧いてこなかった。心の奥底に広島に足を踏み入れることをためらう気持ちがあったのだろう。自分自身、そう思う確かな理由を説明できないが、やはり悲劇の起こった場所に物見遊山な気分で訪れることに罪悪感を感じていたのかもしれない。もっとも戦後生まれの自分にとって、戦争責任など知らぬこと。罪悪感とは無縁のはずだ。しかし、抑止力としての核兵器の存在を否定する立場ではない自分の心との葛藤があるのも確かだ。それに何より、エネルギーとしての原子力の役割は決して終わってはいないとの思いもある。現在もそして将来も、エネルギー問題を解決できるのは原子力を利用することに尽きると考えている。広島城を見学した後、原爆ドームにも行った。それでも現実の政治、社会情勢を勘案すれば、自分のこれまでの考えを改めることにはならなかった。おそらく自分が生きている間に核兵器が無くなることはないだろう。核兵器が政治の道具として利用されることも続くだろう。それを必ずしも悪とは思はない。核兵器が無くなれば、それだけで理想的な世界が生まれるとも思わない。また、エネルギー問題は原子力の利用を妨げては解決できないだろう。
 広島城の天守は昭和33年(1958)に再建された。もちろん焼失前の天守の姿を知ってはいない。今、自分の目に映る天守は再建された天守ではあるが、数百年もの悠久の時を経て善も悪も全てを等しく包み込み静かに佇む姿に見えて、自分の心をいくらか癒してくれる。(2017年3月26日)
 広島城は廿日市市の冠山を源とし、いくつもの河川を合流して広島湾にそそぐ太田川が形成したデルタ地帯に築かれている。この地に大規模な城郭を築いたのは毛利輝元。輝元は吉田郡山城を居城として山陰、山陽八か国120万石を支配下においていたが、天正17年(1589)に小島や砂州に小規模な集落が点在していただけの太田川河口で大規模な城郭建設に着手する。同時にこの地を広島と呼ぶこととする。吉田郡山城は堅固な山城で、山陰山陽の交通の要所でもあったが、中国地方の覇権を手にして大国にのし上がった毛利の領国経営には手狭であり、商業活動にも不便な場所であった。このため瀬戸内の水運がよく、広大な城下町の形成が可能なこの地を選んだとされる。
 天正18年(1590)に城の完成を待たず輝元は広島城に移っている。この地に新たな城を築くことに世間の目は冷ややかであったようで、これに抵抗するように、また城の完成に並々ならぬ決意を持っていたことから未完成の城に早々と入城し、その決意を世間に示したと思われる。文禄元年(1592)秀吉は文禄の役(朝鮮出兵)を指揮するため名護屋へ向かう途中に広島城を訪れる。このころには三重の堀、城下の町割りがほぼ完成していた。慶長4年(1599)に城はほぼ完成する。大阪城に倣い、総石垣造りで近世城郭の代表的な平城であった。三重の小天守2基を左右に振り分けて立つ5重の大天守は大阪城をもしのぐ威容を誇っていたという。しかし城がほぼ完成した翌年に関ヶ原の戦いとなる。輝元は西軍の総大将に担ぎ出され、敗れて周防、長門36万石に減封されて広島城を去って長門・萩へ移る。
 慶長6年(1601)輝元に代わって、秀吉の家臣であったが東軍に与して関ヶ原の戦で武功を挙げた福島正則が尾張清州から42万6千石を得て入封する。正則は外郭部分の大規模な拡張工事を行うが、しかしこれに家康が激怒し、慶長14年(1609)に謹慎処分を受けている。また慶長19年(1614)の大阪の冬の陣で豊臣方が完全に滅亡した後、正則は洪水被害の修復で広島城の石垣工事を行うが、これが幕府に無届であったと咎められ、元和5年(1619)に信濃国川中島へ転封させられる。代わって紀伊和歌山から浅野長晟が入封する。以後浅野氏が明治維新まで藩主を務めた。浅野氏の時代には城の拡張は行われなかったとされるが、最終的に広島城には大天守を含めて99の櫓があり、なかでも西側総構の川縁には11基の2重櫓が立ち並び威容を誇っていた。

広島藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
慶長5年
(1600)
49万8千石 福島正則(外様)尾張清州より入封
元和5年
(1619)
42万6千石 浅野長晟(外様)紀州和歌山より入封

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