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掲載図は亀居公園に設置してある案内板(石本美由紀・詩の坂道案内図)を加工したものです |
城ある記
まだ薄暗い早朝、広島駅から乗車して山陽本線の玖波駅で下車。少し早歩きで約30分、亀居城(小方城)に着く。亀居城は標高88mの山頂に本丸を配し、本丸を含めて11の郭が築かれていた。上掲の図には7ヵ所の郭(松の丸・なしの丸・有の丸・三の丸・二の丸・本丸・詰の丸)しか表示していませんが、「松の丸」の右方(東)に「名古屋丸」「捨の丸」が連なり、さらに有の丸の下方(南)に「鐘の丸」、離れて「妙見丸」が築かれていたようです。現在城の所在地は亀居公園として整備されていますが鐘の丸、妙見丸は範囲外で整備されていない(宅地化された民有地?)。
亀居城は関ヶ原の戦で東軍に与して戦功を挙げた福島正則が芸備二州50万石を拝領して本拠は広島城とするも、周防・長門の毛利氏の抑えの城として慶長8年(1603)に国境の小方に築城を開始、慶長13年(1608)に完成した。しかし豊臣恩顧の武将である福島正則に対する徳川幕府の警戒心が薄れることはなく、また亀居城が支城としては強固な構えであったこともあり、慶長19年(1614)の大坂冬の陣が始まる前の慶長16年(1611)に幕府の命により取り壊しとなる。亀居城は僅か3年で城郭としての役目を終える。
元和5年(1619)福島正則は広島城の無断修理を幕府にとがめられ、安芸・備後50万石から信濃・越後のうちの4万5千石に転封される。以後、亀居城は存在そのものが忘れ去られていたようだ。 |
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亀居城が再び姿を現すのは昭和52年(1977)、城の破却から約370年後のこと。地元の人たちに城山と呼ばれていた一帯を史跡公園として整備することになり、その工事中に天守台の石垣が発見されたという。これを機に大規模な調査が行われ、多くの石垣が破壊されてはいたが主要な部分の石は残っていたようです。現在は新しい石を加えて復元した姿を見ることができる。
本丸から大竹市の街並みと瀬戸内海を眺めることができる。おそらく築城当時は海岸線が今よりも城の下に迫っていたと思われるが、福島正則は何を思ってこの景色を見ていたのだろうか。(2022年3月11日) |
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