日本の城ある記(山陽の城・岩国城)

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 岩国城  (いわくにじょう)

訪問記
 
岩国城は関ヶ原の戦以後に築城された城で、4重6階の天守が建てられたがその存続期間は短く、僅か7年間であったという。築城したのは毛利輝元の一族、吉川広家(きっかわ ひろいえ)。
 吉川広家は吉川元春の三男として永禄4年(1561)に生まれる。父の元春は毛利元就の次男で、安芸国の国人領主であった吉川氏の養子となり天文19年(1550)に家督を略奪する形で継承する。毛利家は嫡男の隆元が継ぎ、三男の隆景は元春と同様に国人領主であった小早川氏の養子となり家督を相続している。毛利一族は毛利両川(吉川、小早川)と宗家の三家(俗にいう三本の矢)によって戦国時代に山陰・山陽の大半を統治する。
 吉川広家は天正15年(1587)に父の元春、長兄の元長が秀吉の九州平定に従軍中に死去したため吉川家の家督を相続する。天正19年(1591)には秀吉の命により月山富田城の城主となり、出雲3郡、伯耆3郡、安芸1郡および隠岐国14万石を領した。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは宗家の毛利輝元が石田三成、安国寺恵瓊らの策略により西軍の総大将に担がれたが、広家はこれと対立。広家は家康と内通し、毛利輝元は否応なく総大将に担ぎ上げられただけと弁明し、毛利の戦闘不参加を条件として毛利一族の所領安堵を願い出る。家康はこれを承諾する。関ヶ原の戦の当日、毛利軍と吉川広家は西軍側として南宮山に布陣するが、広家は毛利軍が参戦するのを阻止するため毛利軍の前に陣取る。結局毛利軍は参戦することなく戦列を離脱する。東軍勝利の後、家康側から一旦は毛利家の所領を安堵する知らせを受けるが、後になって大阪城から西軍の連判状に毛利輝元の花押が複数見つかり、これを理由として所領没収改易、代わりに吉川広家には周防、長門の2国を与えるとの沙汰が届く。しかし広家は自分だけが取り立てられては面目が立たないとして、毛利家の存続を家康に長い出る。これに対して家康は広家に与えた周防長門の2国を毛利輝元に与えることとした。
 毛利家は山陰、山陽8か国112万石から周防、長門2か国約30万石(のちに検地による石高直しにより公称約36万石)に減封となり、本拠を長門の萩に置く(長州藩の成立)。吉川広家は3万石の分地を得て岩国に移る。しかし独立した藩とは認められず長州藩の家臣との扱いを受ける。元和元年(1615)に輝元の養子である秀元に長府藩(3万6千石を分地)、元和3年(1616)に2代藩主秀就の弟・就隆に徳山藩(4万5千石を分地)、さらに承応2年(1653)に長府藩から分地した清末藩(1万石)の各藩はそれぞれ長州藩の支藩として独立した扱いを受けていたのとは対照的であった。
 一方、広家は家康からは築城を認められ、江戸に藩邸を構えることも許され、また参勤交代も行うという大名としての扱いを受け、長州藩内では複雑な立場であった。この関係は江戸時代を通じて継続し、慶応4年(1868)になって正式に城持大名格に列せられるまで続いた。
 広家は慶長6年(1601)岩国に移ると蛇行した錦川の段丘上に居館(御土居)を築き、これが完成した慶長10年(1605)から背後の横山山上に築城を着手する。城は本丸を中心に、南西に二の丸、北東に北の丸を配置。本丸には4重6階の天守が建てられ、慶長13年(1608)に完成する。しかし元和元年(1615)の幕府による一国一城令により横山の城は破却された。当時周防国には岩国城しか存在していなかったが、破却は長州藩の意向が強く働いたものと思われる。
 昭和37年(1962)にコンクリート製の天守が復元されたが、その位置は本来の場所より30mほど南に移された。これは麓の錦帯橋からの展望を良くするためとのこと。(2017年3月26日)
 

岩国藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
慶長5年
(1600)
3万石 吉川広家(外様)出雲富田より入封  慶応4年(1868)に正式に大名格に列せられるが、それまでは毛利長州藩の家臣としての扱い

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