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周防 若山城

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 周防・若山城は守護大名・大内氏の親族で重臣であった陶(すえ)氏の居城。標高約220mの若山の山頂に築かれた山城。瀬戸内海・周防灘を望み、山陽道を見下ろす要衝の地にある。
 山陽本線福川駅で下車。ここから徒歩で若松城に向かう。生憎と福川駅にはコインロッカーが無い。1週間ほど広島・山口と九州の大分を巡った旅の今日が最終日。重いリックを背負って歩き出す。
 福川駅から山側に歩き国道2号線に沿って若山の登山道入り口まで約30分。ここから車の通行可能な舗装された山道を歩く。この道は「陶の道」として「美しき日本の歩きたくなる道500選」に選ばれているというが、背中のリックの所為か結構きつい。周りの風景を愛でる余裕がない。それでもひたすら歩いて約30分。若山城に到着。
 若山城は山頂尾根上、東西約400mにわたって築かれている。山道の終着点が二の丸、東に三の丸。二の丸から西に急勾配を登って山頂の本丸に至る。本丸から西に西の丸、蔵屋敷の郭が続いている。本丸から眺める周南市の町並みと瀬戸内・周防灘に浮かぶ島々の景色は、山城を登り詰めた疲れを一掃してくれ。
 若山城を築いたのは陶氏だが、その時期には諸説あるようだ。一般的には陶氏の七代目当主で大内氏の家臣であった陶弘護(すえ ひろもり)が応仁の乱(1467〜1477)の文明2年(1470)頃に築いたとされる。
 応仁の乱では大内氏14代当主政弘(まさひろ)が西軍の山名宗全に加勢し、畿内各地を転戦する。政弘が領国に不在であった文明元年(1469)に東軍の将軍足利義政に内通した政弘の叔父大内教幸(のりゆき)が謀反を起こす。政弘の留守を守っていた弘護は教幸の反乱を鎮圧するが、この過程で防備のためのに若山城を築いたとされる。
 その後、陶弘護は大宰府を攻めて筑前守護代を務めるなど大内家での地位を強固にする。しかし文明14年(1482)に大内政弘が諸将の慰労のために山口の築山館で開いた宴席に於いて弘護は対立していた吉見信頼によって刺殺される。信頼はその場で討ち取られるが、弘護刺殺は弘護の勢力拡大に不安を覚えた政弘の計略であったとも推測され、このことが後の大内氏16代当主・義隆に対する陶氏の子孫による謀反に繋がったとも言われる。
 天文11年(1542)大内義隆は月山富田城に籠城する尼子晴久を攻めたが、翌年に大敗して敗走する。これ以後義隆は領土的野心や領国経営の興味をなくし、大内家の主導権を巡って武断派の陶隆房(すえ たかふさ・後に晴賢・はるかた)らと文治派が対立する。義隆は文治派を重用して公家文化に陶酔、山口を西の京と称して多くの公家を招いた。
 天文20年(1551)隆房は大内義隆の領国経営の不満から若山城にて兵を挙げる。隆房は山口へ侵攻して義隆を自害させ、内通していた大友宗麟の弟・晴英を大内氏の当主に据えて大内氏の実権を握る。しかし天文24年(1555)勢力を増した毛利氏と厳島で戦い、敗退して自害する。若山城には隆房の嫡男・長房が在陣していたが、大内氏の重臣であるが父を隆房によって謀殺された恨みのある杉重輔(すぎ しげすけ)によって攻められ、長房は自害する。以後若山城は陶氏の遺臣により守られていたが弘治3年(1557)毛利氏の防長制圧により若山城は廃城となった。(2022年3月14日)

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