城ある記
山口城は城であって城ではない。
長門・萩城を居城とする長州藩が周防の山口に城郭を築くことを決めたのは文久2年(1862)10月、この時の長州藩藩主は13代毛利敬親(たかちか)。文久3年(1863)4月〜5月頃には移転を始めている。
城は戦国時代に大内氏が築いた高嶺城(こうのみねじょう)がある標高338mの鴻ノ峰の山麓に築かれた。高嶺城を詰城とすることを意図したものと思われる。城郭は従来の天守を備えた城でなく、砲撃戦を想定して標的となる櫓を排した西洋式城郭として計画された。居館の建設を急ぐため、その資材は長州藩の江戸屋敷を縮小してその資材を利用したり萩城の建物を移築したりしている。
長州藩が居城(藩庁)を萩から移転することを決めたのは攘夷派の急先鋒であった長州藩が、その決行に備えるため。長州藩では攘夷決行の為に関門海峡や周防灘に面した海岸に外国船を砲撃するための砲台を築いていた。戦になれば当然反撃も想定され、外国船からの砲撃に対して海に面した萩城では防御に不安であった。このため内陸部の山口に移転することを決める。また萩と関門海峡・周防灘とは距離があり、中間の山口の方が軍の統制にも便利であったことも移転の理由と思われる。
一国一城の制度や対幕府との関係から長州藩としては山口に築いた城郭は居城の移転の為でなく、藩主が政務をとる場所を萩から山口に移転するだけのもので「城」ではなく、あくまで「山口屋形(やかた)」であると主張した。とはいえ城郭の機能を備えていることから他国からは山口城と呼ばれていたようだ。
萩から山口へ長州藩の藩庁機能が移転するとき、日本の歴史は近代日本に向かって激動する時期にあった。
文久3年(1863)4月、幕府は朝廷や尊王攘夷派の圧力を受け攘夷決行を同年の5月10日を期日とする通達を出す。これにより長州藩では5月10日に長州藩士久坂玄瑞らが長府沖に停泊中であった米国商船ペンプローグ号を砲撃し攘夷を決行する。5月23日にはフランス船、5月26日にはオランダ船、6月1日にはアメリカ軍艦ワイオミング号と交戦している。しかし6月5日にはフランス軍によって長府・前田村に設置した砲台が占拠される。 文久3年(1863)8月18日、それまで攘夷を主張して朝廷での主導権を得ていた長州藩にたいして、薩摩藩が京都所司代の会津藩や朝廷の公武合体派と結び、長州藩兵や攘夷派の公卿(七卿落)を追放する。いわゆる「8月18日の政変」が起きる。
元治元年(1864)7月19日、前年に京都を追われた長州藩兵を主力とする攘夷派勢力が再び主導権を回復する目的で挙兵。後に禁門の変(蛤御門の変)と呼称される事件を起こす。長州藩兵と会津・桑名藩兵が蛤御門で衝突したのを契機に始まった戦は大砲も使用された激しい戦闘であったが、結果は長州藩の敗北で終わる。
敗れた長州藩はその責任から朝敵とされ、朝廷の命を受けた幕府は征長軍として尾張藩、越前藩など西国各藩の計35藩、約15万人の軍勢を編成。幕府は元尾張藩主の徳川慶勝を征長軍総督に任命して出陣を命じる。
同じ年の8月に長州藩が関門海峡や周防灘の海岸に設置した砲台はアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4国連合艦隊による砲撃で壊滅的被害を受ける。結局、長州藩の現状は幕府と戦う戦力がなく、藩内保守派の台頭もあり幕府に恭順の意を示し降伏。幕府も征長軍の撤兵命令を出す。このときの降伏条件には完成したばかりの山口城の破却があり、長州藩は城郭の一部を破却し、藩主敬親は萩に戻り謹慎する。
以後、長州藩は圧倒的な外国の武力を目にして外国から最新の武器・技術導入を進めて軍備・軍制を改革する。目的は倒幕。高杉晋作は奇兵隊を組織して下関で挙兵し藩論を倒幕にまとめ、主導権を得る。萩に謹慎していた藩主敬親は慶応元年(1865)4月には山口に復帰している。
長州藩の不穏な動きを察知した幕府は長州再征伐を決意し慶応元年(1865)9月に朝廷の勅許を得る。しかし第1次の長州征伐の時と比べ、諸藩の中には再征伐に反対する空気もあり、直ぐに出兵することができなかった。そうしたなか慶応2年(1866)1月には坂本竜馬などの仲介により薩長の盟約が結ばれる。薩摩藩は長州征伐の出兵を拒否するが、事態を打開するため幕府は紀州藩主・徳川茂承(もちつぐ)を征長先鋒総督として出陣さる。これに対し長州藩は藩領の境である「大島口」「芸州口」「石州口」「小倉口」の4ヵ所に布陣して幕府軍と対峙する。慶長2年(1866)6月7日に幕府軍は大島口を砲撃する。13日には芸州口、16日には石州口、17日には小倉口で戦闘が開始される。兵士の数では長州軍を圧倒的に上回る幕府軍だが、戦況は全て長州軍が有利に進める。山口城(屋形)は軍事の拠点として、その機能を十分に発揮する。
将軍徳川家茂は長州征伐の陣頭に立とうと大阪まで出陣していたが、慶長2年7月大坂城で病に倒れ死去する。将軍が死去したことにより朝廷は休戦の勅命を出す。事実上の幕府軍の敗北である。
長州征伐の失敗により幕府の威信は大きく損なわれ、慶応3年(1867)10月の大政奉還、同年12月王政復古の大号令と続き、薩長土肥の4藩を中心とした倒幕運動となり江戸幕府は崩壊する。
山口城(屋形)は引き続き藩庁として政治軍事の拠点としの役割を果たすが、明治4年(1871)の廃藩置県により山口県庁となり、城郭機能は明治6年(1873)の廃城令により廃城となる。
日本が近代的国家とし歩み始める、その舞台の一つであった山口城(屋形)であるが、その遺構はほとんど残っていない。ちょっと寂しい気もするが、何も残っていないことこそ過去のしがらみを捨て去って新しい国造りに進もうとする意志が感じられて、むしろ清々しい気分にもなる。上記掲載の山口御屋形の絵図は唯一山口城に残る遺構である表門の前にあった案内板から転写して加工したものです。(2022年3月12日) |