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長門 萩城



ある
 JR新山口駅から高速バスでJR東萩駅へ。到着時刻は12時10分。萩城を見学した後に新山口駅に戻る以外は何も予定がない。時間はたっぷりある。ゆっくりと歩き出す。
 東萩駅から直ぐに阿武川が分岐した松本川に出る。この川に架けられた萩橋を渡ると四手網(よつであみ)漁をしている人に出会った。小学生のころ私が育った地方の河口でも見たことがある。舟ではなく堤防に足場を組んで網を下ろしていたが、ここでは舟からするようだ。懐かしさと何が獲れるのか興味もありしばらく見ていたが、多分シラウオらしき小魚が網にかかっていた。四手網漁は小学生の頃に見たのが最後の記憶だから、それから半世紀以上の月日が経っている。
 お寺が建ち並ぶ通りを抜けて菊ヶ浜にでる。砂浜の先に海に浮かんだような指月山(しづきやま)が現れる。よく見ると、山裾を取り巻くように石垣が築かれている。壮大な眺めにこれから行く萩城への期待が膨らむ。
 萩城は関ヶ原の戦で敗北した毛利輝元が築いた城。勝者である徳川家康により輝元は山陰山陽に領していた八か国約120万石を没収されて周防、長門の二か国約30万石(後に石高直しで約37万石に)に移封される。昨日、安芸の郡山城を訪れて毛利家の躍進ぶりを目にしてきたので、広島城を明け渡して萩に移封された輝元の無念を思うとちょっと残念な気持ちだ。それでも萩城の大大名に相応しい城構えを見ると、いつの日かの捲土重来を見据えた毛利家の覚悟が感じられて、このことに何ら関係のない私も救われた気分になる。
 萩城は阿武川が分岐した松本川と橋本川にはさまれた三角州とそこから日本海に突き出した指月山に築かれた平山城。三方を海に囲まれた要害の地にあり、指月山の麓の城と山頂の城の二つの城郭からなる。
 山麓の城は本丸、二の丸、三の丸を順に配した梯郭式城郭で、それぞれの郭は堀によって守られた堅固な構えとなっている。三の丸は主として重臣の居住屋敷として使用された。城下町から三の丸への出入りは北の総門、中の総門、平安古(南)の総門の三カ所あった。総門によって堀内(三の丸)と城下町が区分されていた。
 三の丸から二の丸へは南門と東門がある。このうち南門が大手とされる。二の丸には12もの櫓が建てられていた。本丸は東西200m、南北145mの広大な面積を持つ。ここに御殿と南西部に高さ6間(約11m)の天守台を築き五層五階の天守が建てられていた。また南東部と北東部には櫓を配していた。二の丸との間には南と西の二カ所に門を設けている。

 古城絵図・萩城(部分) 国立国会図書館デジタルコレクションより

 指月山は標高143m。海面と登り口の高度にそれほどの差がなく数字以上に高く感じる。また勾配もなだらかとは言い難く山頂まで登るには結構きつい。直登する様に道が付けられている個所もあり、登山をする気構えが必要だと個人的には思う。それに今日の午前中、萩城を訪れる前に周防と安芸の境にある亀居城(小方城)を訪れている。亀居城は標高88mの山頂に築かれた城で、ここも海岸近くに立地する。少し前なら平気であった山城巡りも後期高齢者に今年仲間入りする年齢に達して
一日に2カ所訪れるのはちょっと厳しく感じるようになった。登城路をただひたすら登るだけで途中の景色を眺める余裕もなく、山上に築かれた城址にたどり着いてほっと一息。まずはしばし休息をとる。
 詰の城、要害というだけあって、山上に築かれた城郭は難攻不落の要塞の雰囲気がある。指月山そのものが要塞と言っていい形状をしており、その山頂に石垣を築いて造り上げた城郭は見応えがある。
 私が訪ねた詰の城の多くは戦国時代に築かれたものが多い。しかし萩城の詰の城は徳川が政権を握った後に築かれたもの。当然徳川幕府の了解のもとで築城されたであろうが、その為の駆け引きは双方ともに神経を使ったものと推測する。戦国時代の土で固めた山城、詰の城ではなく、近代的な城郭技術で作り上げた詰めの城は、築城者の毛利家の秘めたる覚悟を感じる。

 詰の城(案内板には「萩城要害跡」と記され、詰丸、要害と呼ばれていたと書かれている)は本丸と二の丸の二段から構成されている。登城路を上がるとL字型に囲んだ石垣と土塀が目に入る。土塀には矢間、鉄砲狭間が仕込まれている。建物は全て取り壊されているが矢倉門があり、ついで要害門矢倉を抜けると二の丸に出る。二の丸は東西19間(約37m)南北20間(約40m)の広さ。二の丸の東に一段高くなって本丸がある。本丸は東西24間(約47m)南北20間(やく40m)の広さ。天守は建てられていなかったようだが、藩主が登城した時に使用する茶屋があったという。本丸東には裏門として埋門が設けられている。案内板に描かれている絵図では詰の城全体で門のほかに7棟の矢倉(櫓)が建てられている。二の丸には雨水を溜めたと推測される石組が見られる。また本丸には石切りノミの跡(矢穴)がある巨石が放置されている。築城に使用した石はすべて現地調達したものであったのだろうか。ここに残した巨石は何か目的があってのことか。


 重臣たちの屋敷が建ち並んでいた三の丸には今もその面影を色濃く残している通りが幾筋もある。こうした佇まいの町に住んだことがないので実態は分からないが、私には日常的に生活するにはちょっと息が詰まる思いもする。武家の家でなく町人の家で育った所為か。それはともかくとして、旅人としてこうした雰囲気に触れることは素直に日本の歴史を感じて興味深い。ここは「伝統的建造物群保存地区」に指定されているとのこただから出来る限り後世の残してもらいた。しかしながら他人の目としては維持管理は大変だなとは思う。
 あちこち歩いて、ちょっと疲れたが、再建された北の総門をくぐり、東萩駅までのんびり歩くことに。思えば30年以上前、小学生だった息子二人とカミさんを連れて萩の町を訪れたことがあったが、その時の光景が浮かんでこない。歳をとって足だけでなく記憶力も衰えてきたようだ。(2022年3月11日)
 

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