城ある記
櫛崎城を見学して勝山御殿に向かう。関門医療センターのバス停から乗車して御殿町バス停で下車。ここから勝山御殿までは約1.5km。徒歩で20分ほどの行程。
勝山御殿は文久3年(1863)の下関戦争の折、関門海峡・周防灘に面した海岸に築いた砲台が外国船に砲撃されて占拠されたのを受け、雄山城(櫛崎城)に隣接して設置されていた長府陣屋(藩庁)の機能をを移転したもの。四王司山、勝山、青山の三山に囲まれた内陸部に築かれている。山の南向き斜面を削り、階段状に本丸・二の丸・三の丸が築かれ、それぞれの郭には石垣が用いられている。現在みられる石垣は築城当時もの。
勝山御殿の建設が始まったのは文久3年(1864)6月。翌元治元年(1865)2月には藩主毛利元周(もとちか)が移住している。これだけの規模の城郭を7カ月に満たない期間で築き上げたのには驚く。
勝山御殿は長府藩の陣屋(藩庁)として使用されるが、明治2年(1869)に長府藩は豊浦藩へ改称。
明治4年(1871)の廃藩置県で
豊浦県となり、同年に豊浦県は山口県に統合される。勝山御殿の使命は短期間で終了する。(2022年3月14日) |