城ある記
JR新下関駅からバスで下関市長府の関門医療センターへ。生憎、傘をさすほどではないが、霧雨ようの雨模様。医療センターの北側に小高い丘があり、丘の登り口に関見台公園の案内板がある。櫛崎城(くしざきじょう)址は公園として整備されているようだ。
櫛崎城は関門海峡を望む要衝にあり、周防灘に突き出した半島の高台に築かれている。天守台に立てば関門海峡を行き来する船舶や北九州市門司の町並みをすぐ近くに見ることができる。
この地に最初に城を築いたのは平安時代との説があるが詳細は不明。戦国時代に大内氏の家臣で後に毛利氏の配下となり長門守護代を名乗った内藤隆春(たかはる)が櫛崎城を支配下に置いていた。
櫛崎城は「串崎城」とも言われるが、謂れは鎌倉時代の元寇の際に打ち取った敵方の首を海岸に埋めたことにより「首」がなまって「串」になったという説があるようだ。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で敗北し、防長二国に減封された毛利氏は長門の萩を本拠とするが、慶長7年(1602)に毛利輝元の養子・秀元が3万5千石を分封されて長府に入部。櫛崎城を改修して居城とする。このとき雄山(かつやま)城と改名している。雄山城(櫛崎城)本丸天守台下の案内板に掲示されていた古城絵図によると、本丸・天守台は高台の南端の高台の最高地にある。本丸の北には二段になった二の丸が築かれている。三方を海に囲まれ半島全域を城域とした強固な守りの城郭であったようだ。
元和3年(1615)の一国一城令により雄山城(櫛崎城)は破却されることとなり、長府藩の藩庁(陣屋)は城の西側山麓(現豊浦高等学校の敷地あたり)に築かれた。
現在の本丸の石垣は公園整備に伴って築かれたようだ。毛利氏による築城当時と同じものが復元されているかどうかは私には分からないが、石垣の上に立ち眼下の海峡を眺めれば防長二国に押し込められた毛利氏一族の捲土重来の思いが伝わってくる。(2022年3月14日) |