日本の城ある記(四国の城・徳島城)

 四国の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 徳島城 (とくしまじょう) 


ある
 徳島は初めて訪れる土地。これまで仕事でも観光でも縁がなかった。讃岐の引田城を見学した後、鳴門へ行ったが雨が降っていたので観光は諦めて今日の宿である徳島市へ。徳島駅には午後1時半頃に着く。小雨模様だったがこのまま宿に入るのも、街をぶらつくのも、どちらにしても時間を持て余す。徳島城は標高約60mの猪山(渭山・いのやま)山頂に本丸を構える平山城。事前の調べでは山城のような険しさはなく、登城路もよく整備されているようだ。予定では明日見学することにしていたが、小雨程度なら心配ないと宿には寄らず駅からそのまま城跡に向かう。歩き始めて、幸い小雨も止んでいる。
 徳島城の本丸に登るには三つのルートがある。「西坂口」「東坂口」それと北斜面から登るルート。西坂口からは西三の丸、西二の丸を経由して本丸に至る。東坂口からは東二の丸を経て本丸に至る。北斜面のルートは本丸御殿北口に設けられた「埋門(うずめもん)」に通じている。
 私は徳島駅の西側から踏切を渡り、かつての西の丸屋敷があり現在は小学校の用地となっている曲輪跡を経て西坂口に向かう。JR徳島駅の敷地に沿って歩くのだが、ここはかつては城の南面を防御する堀の役割であった寺島川が埋め立てられた場所。通路の端にはその痕跡であろうか石垣の上部らしきものが見える。
 徳島城址は徳島中央公園として整備されているようで、ここに至るまで徳島城址への案内板を目にすることがなかった。西坂口の登り口も蒸気機関車が展示されている奥にあって、すぐには見つけられなかった。徳島の観光の第一は「阿波踊り」で城址の存在価値は重んじていないのかと、城址巡りを趣味とする者として少々僻んでみたが、私が歩いたのは裏ルートであったのか、後で見つけたのだが、大手門と公園の中央部に案内図はあった。
 登り口から西三の丸までの直線的で長い石段を一気に登る。このところ、しばしば痛みを覚える関節も今日は静かだ。それでも息遣いは少々荒くなる。体力の衰えを嘆いてみても、歳を取れば誰もこうなると諦めるしかない。体力維持のための城巡りとは思っているが、それ以上の努力をしたくない怠け者ではある。
 西三の丸の大部分は城山配水池の用地として利用されている。階段の踊り場に標識があるだけだ。西三の丸と西二の丸の中間(西二の丸虎口の上段)に「帳櫓跡」の標識がある。古絵図には2層の櫓らしきものが描かれているが、「帳」櫓の意味が分からない。場所から考えれば見張のための櫓、敵の侵入を阻止する為に張り出した櫓、などなどと推測するが、そうなら「張櫓」ではないかと。帳=とばり・幕と解釈して陣幕の保管庫か。まさか帳=文書・資料の保管庫ではあるまい。いずれ調べてみよう。
 西二の丸から本丸への虎口の上段には弓櫓の跡がある。平時の櫓の役割は主に武器庫であったようだから、ここは弓・矢の保管庫であったのだろう。分かり易い。
 
 徳島城は吉野川河口の三角州にあり、助任(すけとう)川と寺島川に挟まれた渭山とその麓に築かれている。この地に最初に城を築いたのは室町時代の至徳2年(1385)頃に守護大名であった細川氏によるとされる。城は渭山山上の渭山城と麓の寺島城であったが、天正13年(1585)四国征伐で軍功をあげた蜂須賀家政が秀吉より阿波一国・18万6千石を拝領して、渭山城と寺島城を一体として大規模な城郭を築く。築城時の天守は本丸弓櫓付近に建てられていたが、元和年間(1615〜1624)に取り壊されて東二の丸に天守台を設けない3層の天守が新たに築かれる。
 本丸には御殿が建てられたが、藩主は麓の御殿を使用し、本丸の御殿を使用することはほとんどなかったようだ。正保年間(1645〜1648)に幕府の命により差し出された「正保城絵図」には、本丸に天守の姿はなく、東二の丸に三層の天守が描かれている。
 蜂須賀家政は絵本太閤記で御馴染の蜂須賀正勝(小六)の嫡男。ただし絵本太閤記は江戸時代の創作で、実際の蜂須賀小六像とはかなり違うようだ。野盗の首領ではなく尾張蜂須賀郷の国人(国衆・地侍)で小六は最初は斎藤道三に仕えたが、信長の才能を見込んでその家臣となる。やがて秀吉の直臣となって、数々の戦功をあげる。秀吉の一世一代の賭けともいえる中国大返しの成功は黒田官兵衛と共に小六の貢献があったからとも言われている。
 豊臣秀吉からは二代にわたって恩顧を受けた武将であるが、関ヶ原の戦の折、家政は隠居して高野山に籠り嫡男の至鎮(よししげ)を家康側の東軍に参陣させる。東軍勝利により所領は安堵され、更に大阪の陣で至鎮が武功をあげ、淡路一国が加増されて蜂須賀家は25万7千石の大名となる。
 寛保3年(1739)尾張蜂須賀家の正統であった第7代藩主宗英(むねてる)が隠居し、養子として迎えた高松藩主・松平頼桓の弟宗鎮(むねしげ)が第8代藩主となる。これによって正勝、家政、至鎮の男系子孫は途絶えるが、蜂須賀家としては明治維新まで阿波・淡路2国の領主として徳島城を居城として存続した。(2020年1月14日)
 通常本丸の出入りは東西の門から行われたが、本丸北側に本丸御殿で隠された埋門(うずめもん)があった。これは非常時の脱出用のためのもの。
   
 本丸から東二の丸へ下る階段と城壁。横に張り出した石組は崩落防止のために造られたものか。鳥取城には水圧から城壁を守るためにドーム型の石組があったが、それとは少し違うように見える。東二の丸には三層の天守が建てられていた。天守台はない。 
 
 堀と御殿、庭園を隔てる通路。庭園は名勝庭園として国の指定を受けているが、訪れた日は連休の翌日で休園。中に入ることは出来なかった。 
   
 堀に築かれた石垣に用いられた石は阿波産の変成岩。青みがかった石は緑泥片岩(りょくでいへんがん)、赤みがかった石は紅簾片岩(こうれんへんがん)だそうです。 

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.