日本の城ある記(四国の城・一宮城)

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 一宮城 (いちのみやじょう) 


ある
 徳島駅前から一の宮札所前行のバスに乗る。終点まで約40分のバスの旅。乗客は5人。終点まで乗っていたのは私一人だった。
 バスを降りると、そこが一宮城への登山口だ。案内板と散策マップが用意されている。左の案内図はこれを写したものです。
 一宮城の名前の由来は、おそらくここに阿波国の一之宮神社があったことに依るのだろう。一宮城は山城である。低山であっても山は山。一之宮神社はすぐ近くにある。登城前に安全を祈願して参拝しようと思ったが止めた。日頃宗教心のない私が都合の良い時だけ願をかけても御利益はないだろう。なお、阿波国には他にも一之宮が存在するらしいが詳しいことは知らない。
 私以外に人の気配がないバス停で、今日一日膝に痛みが来ないようにと願って軽く屈伸運動をする。此の頃の、出掛ける前の習慣になった。
 一宮城の見学が終われば徳島駅に戻る予定。次の徳島駅行きのバスが来るのは2時間30分先。慌てずゆっくり散策することにする。

 
 山城であるから勾配のある登城路は当然であるが、よく整備されているので歩くことに何の支障もない。少し前の私なら、現代風に整備の行き届いた登城路に出会うと、山城の雰囲気が壊れると不満に思ったが、今は人の努力に感謝する。歳をとったせいか、それとも多少は人格者に近づいてきたのか。まあ、後者であることは有り得ないだろう。因みにこの登城路は本来の大手道とは違うらしい。
 最初に現れる平坦地は倉庫があった曲輪。食糧・武具を備蓄するための曲輪だが、この先にも同じ用途の曲輪がある。ただし、そちらへの道は整備されていないようなので才蔵丸、明神丸へと向かう。
 才蔵丸と明神丸との間は尾根を大きく断ち切って分断されている。才蔵丸には堀底道から入る。堀底道に侵入した敵は才蔵丸、明神丸から挟み撃ちの攻撃にさらされる。才蔵丸の北側は斜面を切り崩して崖状とし、登城路から侵入してくる敵に対して矢を射かけて防護する工夫がされているようだ。明神丸は本丸と帯曲輪でつながっていて、本丸を守るための重要な曲輪。帯曲輪の虎口は明確に残っていなかったが、縄張りの位置から想像して強固な門構えであったと思われる。明神丸北側先端からからは城下の集落と鮎喰川、平時の居住地であったと推定される御殿の跡地が見渡せる。
 明神丸と本丸は尾根上の帯曲輪で結ばれている。帯曲輪(尾根)の両サイド は急斜面となっているので少し幅のある土橋ともいえる。帯曲輪に侵入した敵は明神丸と本丸からの攻撃にさらされることになる。 
 帯曲輪を抜けると本丸の石垣が侵入者を威圧する。石組は昨日見学した徳島城と同じように見える。使われている石材も同様である。天正13年(1585)蜂須賀家政は秀吉より阿波一国を拝領して徳島城を築城するが、完成するまで一宮城を居城としたことから、一宮城もその時に改修し、本丸の石垣も同時期に築かれたと思われる。

 本丸は標高約140m、比高約120mの尾根上の最高部にある。一宮城の特徴の一つに本丸を含めたそれぞれの曲輪は自然の地形を利用して尾根上のピーク点に築かれ、それぞれの曲輪は独立した存在にある。個々の曲輪の面積も比較的広い。
 この地に最初のに城が築かれたのは南北朝時代の延元3年(1338)阿波国守護・小笠原長房四男、小笠原長宗とされる。小笠原氏は一宮氏を称して最初は南朝側に属していたが、阿波国守護となった細川氏に攻められ、細川氏の被官となって北朝側に下った。細川氏に代わって三好氏が阿波国守護となると、一宮氏は三好氏の被官となる。一宮氏は三好家臣団の中で重要な地位を得ていたようだ。
 天正10年(1582)本能寺で織田信長が討たれると、この機に乗じて長宗我部氏が阿波に侵攻。一宮氏は長宗我部氏と通じて織田信長の四国侵攻に加勢していた十河氏の軍を破り、長宗我部氏は阿波国を平定。しかし長宗我部氏は一宮氏が三好氏と通じていたと疑い、家臣を使って一宮氏を謀殺する(異説もある)。一宮城には長宗我部氏の家臣を入れ、このときに明神丸、才蔵丸が築かれたとされる。
 長宗我部氏は土佐出身だが讃岐、阿波を支配下に置き、天正13年(1585)には伊予に侵攻して湯築城の河野氏を破って四国制覇を成し遂げる。これに対して信長の後継者となった秀吉は長宗我部氏に土佐、阿波の二国を安堵する条件で和睦を申し出るが長宗我部氏はこれを拒否。秀吉は阿波に6万、讃岐に2万、伊予に3万の軍勢を同時に上陸させて四国に侵攻。これに対して長宗我部氏の動員できる軍勢は最大で4万。これを三方面に分散すれば圧倒的に不利。各地で長宗我部側は敗退する。最後は阿波国に残った長宗我部側の城、一宮城、岩倉城、脇城で両軍の主力が激戦を交えることになる。一宮城には秀吉側の軍勢4万が押し寄せ、守る長宗我部側の兵は1万。状況不利となり開城する。同時期に岩倉城、脇城は落城している。長宗我部氏の当主・元親は阿波の西奥部の白地城にいたが、土佐一国を安堵される条件で秀吉と和睦する。この時長宗我部氏との秀吉側の交渉役は蜂須賀正勝(小六)。秀吉は阿波国を正勝の子、家政に与える。
 蜂須賀家政は一宮城に入城するが、同時に徳島城の築城に着手。天正14年(1586)に徳島城がほぼ完成したのを機に移転する。一宮城は家臣の益田持正が城代となる。一宮城は「阿波九城」として改修され、阿波国支配の拠点になるが、元和1年(1615)の一国一城令により廃城となる。しかし徹底的な破却はされなかったようだ。
 因みに阿波九城は「一宮城」「撫養(むや)城」「西条城」「川島城」「大西城」「海部(かいふ)城」「牛岐(うしき)城」「脇城」「仁宇(にう)城」
 
   
 本丸を下り小倉丸に向かう。途中に「曲輪跡」「花畑」の標識があったが形状がよくわからなかった。ここを通る通路は尾根上ではなく、尾根から少し下ったところに設けられている。登山口で貰った案内図には尾根上に平坦地が描かれているが、樹木が生い茂っているので立ち入るのは止める。本丸を守るための小曲輪が連続して配置されているようだ。また城内最大とされる堀切もある。本丸防護は堅固になされている。
 小倉丸は先に見た才蔵丸と同じく長軸50mほどの細長い曲輪。周囲は上部幅2mほどの土塁で囲まれている。少し高くなった土手上に「櫓台」の標識がある。小倉丸周囲には竪堀が何本か掘られている。本丸南東に位置する小倉丸は、本丸西北にある明神丸と同様に本丸防衛の重要な役割を持った曲輪なのだろう。
 
   
 小倉丸を出て小さなピークを越えると椎丸(しいのまる)と貯水池(水場)の分岐となる鞍部に出る。貯水池は椎丸、水ノ手丸を経由して見ることにして椎丸へ向かう。このあたりの通路も明確につけられて迷うことはないが、登山口から本丸に至る通路に比べれば自然感充分。まさに山城の雰囲気。椎丸も水ノ手丸も石垣を用いず土だけで築かれた曲輪。本丸や明神丸、小倉丸と比べれば見劣りはするが、ここでは戦国時代の強者達の決戦を前にした悲壮感漂う姿が浮かんでくるような気分になる。 
   
 水ノ手丸から貯水池への急坂を下る。貯水池は籠城のための重要な場所だ。おそらく石垣を築いて谷筋の水を堰き止めて貯水池としたものと思われるが、堰がない現在でもわずかに水を湛えている。貯水池の先は崖になっていて、鎖を伝って下りる。高さ10m以上はあると思われる崖に、貯水池から流れる一筋ほどの水が落ちている。ここから出発点である登山口に向かう。登山口手前に一宮神社がある。出発前に安全祈願はしなかったが、平穏に城見物ができたことの御礼に立ち寄る。(2020年1月15日)  

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