日本の城ある記(四国の城・阿波 撫養城)

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 撫養城 (むやじょう)  (岡崎城)

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 撫養城は岡崎城、林崎城とも呼ばれている。阿波国の北東端に位置し、標高60mほどの妙見山に築かれている。また城下を流れる撫養川がT字形に南北に河口を開いているので、城のある場所は四国本島からは分離した島のような地形となっている。(築城時も同じ地形だったかどうかは調べていない)
 この地に初めて城を築いたのは承久3年(1221)の承久の乱後に阿波の守護となった小笠原氏によるという説があるが、その確証はないようだ。室町時代には小笠原氏の支流で阿波守護代となった三好氏の配下である四宮氏が城主であったと伝えられる。
 天正10年(1582)阿波を制圧した長宗我部元親は配下の真下飛騨守を撫養城の城主に据える。天正13年(1585)には豊臣秀吉による四国征伐により長宗我部氏は敗退し、阿波国は蜂須賀氏の所領となる。蜂須賀氏は徳島城を本拠とし、撫養城は阿波九城と呼称される支城の一つとなった。江戸(徳川)時代となり、寛永15年(1638)の一国一城令により撫養城は廃城となる。
 現在城址跡には模擬天守が建てられているが、もともとは撫養城には天守は建てられていなかった。模擬天守の下段に天保元年(1830)に建てられた妙見神社の社があり、その裏手に撫養城の石垣が残っている。
(2020年1月15日)

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