日本の城ある記(四国の城・阿波 勝瑞城)

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 勝瑞城 (しょうずいじょう)

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 勝瑞城は旧吉野川の本流、支流に囲まれた湿地帯に築かれた平城。承久3年(1221)の承久の乱後に阿波国守護となった小笠原長清によって築かれたのが最初とする説もあるが、現在「勝瑞城」とされる場所に最初から城郭が築かれていたかどうかは分からない。長清は守護所を築いたのであって戦時を意識したものではなかったのでは。またその守護所に自らが常駐していたのでもない。勿論、守護所および居館に一定の防御施設は当然に築かれていたと思われますが、現在「勝瑞城」とされる城郭は天正3年(1575)に土佐国を統一し、さらに四国全域の平定を目論む長曾我部元親に対抗するため急遽築城されたとする説が現在では有力となっているようです。
 天正6年(1578)この頃既に阿波国南部は長宗我部の勢力下にあったが、三好一族の勢力を挽回するため三好一族で十河家の養子となりその家督を継いだ十河存保(そごう まさやす/ながやす)が勝瑞城の城主となる。ただし居館は勝瑞館跡にあったと思われます。これ以後存保は三好家の実質的な当主として三好姓を名乗ることが多くなる。存保は天正9年(1581)に信長の助力を得て長宗我部氏への反攻を開始する。しかし天正10年に信長が本能寺で討たれ、存保は後ろ盾を失ってしまう。これを好機として長宗我部元親は四国平定に拍車をかける。天正10年(1982)勝瑞城を本陣とする存保の軍勢と中富川(吉野川の支流?)の南岸に布陣した長宗我部の軍勢と戦闘状態に入り、この戦は双方で1500人以上の戦死者を出す阿波国では最大の激突となった。最終的には兵力で劣る存保は勝瑞城に追い詰められ、長宗我部の2万の軍勢に包囲されて勝瑞城を明け渡し降伏する。これにより勝瑞城は廃城となる。
 現在、東西約80m、南北約60mの方形の城域は堀で囲まれ一部に土塁が残っている。ここには江戸時代に三好氏歴代の墓を一カ所に集めた見性寺が建てられている。
   
 現在、勝瑞館跡は継続的に発掘調査が行われている。守護所(政庁)、守護の居館として他に例を見ないほど発展し、城下町も形成され東西約2km、南北約1.5kmにもおよぶ広大な規模であったようだ。鎌倉時代から戦国時代まで、日本の歴史に大きな影響力を与えた勝瑞館(城)の全貌が今後明らかになるものと思われます。

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