日本の城ある記(四国の城・高松城)

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 高松城  (たかまつじょう)

訪問記録
 横浜からサンライズ瀬戸に乗り、終着駅の高松で降りる。今日から二泊三日で四国の城めぐりの旅が始まる。7か所の城を訪ねる予定なのでので少し窮屈な旅になりそうだが、訪ねるのはお城ばかりではない。同行者のカミさんの機嫌が損なわれないようにと温泉地の宿泊も用意してある。高知では本場のカツオのタタキも味わう予定。
 寝台列車(夜行列車と言うのが標準的か?)に乗るのは久し振りのこと。直近に利用したのも、もう20年以上も前のことだ。子供が小学生のころで、山陰地方を家族旅行した時に使った。そのころは列車の色からブルートレインと言っていたが、サンライズ瀬戸は茶の入ったクリーム色で、随分スマートなボディだ。車内設備も格段と良くなっている。ツインの個室を利用したかったが生憎と満席。シングルを2つとることになったが、まあ、その方が良かったかもしれない。狭い車内では息が詰まる。一人旅の気分を味わうのもいいものだ

 高松は仕事でも訪れたことはあるが、何故か高松で思い出すのは高校の修学旅行で乗った宇高連絡船。修学旅行は3年生の時ではなく2年生の時に行った。受験対策、就職活動対策のためだったと思う。岡山の後楽園を見学した後、宇野港から乗船して高松港までの短い距離だが、実は私は手漕ぎのボート以外の船に乗ったのはこれが初めての経験だった。穏やかな海だったと思うが後部デッキに立って、船の作る波の航跡をずっと眺めていた。今は連絡船ではなくフェリーが運航されているが、高松城に隣接して乗り場がある。おそらくあの頃とは様子がすっかり変わっているのだろうが、高松城の堀越しに眺めるフェーリー乗り場がすごく懐かしく感じる。
 修学旅行で高松城を見学した記憶がない。二基ある櫓は再建されたものでなく江戸時代からのものだが、初めて目にする気分。あの頃は城跡見物などどうでもよかったのだろう。歳を取ったせいばかりではないが、こうしてゆっくり日本の文化財を眺めるのもいいものだと思うようになった。海風の混ざった空気を吸って旅の初めに気分は上々(2013年4月22日)
 高松城は天正15年(1587)に讃岐国17万石の領主となった生駒親正が築いた城。生駒親正は最初は現在の東かがわ市にあった引田城に入るが、手狭であることと讃岐の中で位置的に東に偏っていたため天正16年(1588)現在地に築城を開始し天正18年(1590)に入城する。
 生駒親正は美濃国の出身で、生年ははっきりしないが大永6年(1526)と推定されている。父親は織田信長の家臣であったとされるが、親正が信長の家臣となるのは永禄9年(1566)の美濃攻めの時のことで、羽柴秀吉の配下になることを命じられる。この時の親正の年齢は40歳であり、それ以前に武将として活躍した記録はないようなので随分と遅いデビューである。ちなみに秀吉は親正より10歳ほど年下であった。信長は40歳の”おやじ”を若い秀吉に預けたのは親正に何らかの才能を見いだしてのことなのだろう。親正は天正3年(1575)の長篠の戦、同4年の石山本願寺攻め、同5年の紀州攻めなどに参軍し活躍する。
 天正10年(1582)の本能寺の変以降は秀吉の臣下となり、明智光秀との山崎の合戦、柴田勝家との賤ヶ岳の合戦にも加わり、文禄の役(第一次朝鮮出兵)でも先陣を務め、いずれも武功をあげている。親正自身の努力もさることながら中年オヤジを引き上げた信長の鑑識眼はさすが。改めて信長の人を見る目、人を使うの能力に感嘆するが、それだけに何故本能寺では光秀に油断したのかと不思議に思う。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では親正自身は西軍に与するも、息子一正は東軍に加わる。このため家康は親正を許して子の一正に所領を安堵する。しかし寛永17年(1640)4代目藩主の高俊のとき”生駒騒動”として後世に伝えられる御家騒動が勃発。幕府の裁定で高俊は出羽矢島一万石へ転封させられる。
 生駒氏転封のあと一時的に幕府直轄となったが、寛永19年(1642)水戸光圀の兄・松平頼重が12万石で入封する。正保元年(1644)頼重は天守、石垣の修築に着手。三の丸の北東に北の丸、その南に東の丸を新たに造営。延宝5年(1677)には東の丸に現在に残る艮(うしとら)櫓を完成させて修築事業が完了。当時の高松城は北側が海に面し、東、南、西の三面に堀を巡らして海水を入れ、東西の外堀が舟入(港)となっている。中央に配した本丸の東端には最上階が下層よりも大きい南蛮造りといわれる三重四階の天守を置き、多門櫓で本丸を囲っていた。本丸と二の丸は木橋で結ばれ、三の丸に御殿が建てられていた。現在みられる遺構はこのときのもの。なお、下に掲載の城絵図は本丸が天守曲輪、二の丸が本丸、三の丸が二の丸、桜馬場が三の丸と表記されている。この城絵図は鳥羽藩の兵学研究用の資料で、製作年代や基になった資料等は不明です。ただし郭の名称を除いて位置関係はほぼあっています。
 高松藩は表高は12万石であるが実際は16万石の収穫があったという。初代藩主頼重は徳川家康の孫にあたる血筋。三代将軍家光は頼重に西国大名の目付け役を命じたという。頼重は溜池や上水道を整備し、塩田の開発、機織り、陶器作りなど殖産事業にも努めた名君と伝えられる。
 現在城跡には石垣、堀のほか天守台、月見櫓、水手御門、渡櫓、艮櫓、朝日紋、埋門などが現存している。

高松藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
天正15年
(1587)
17万1千石 生駒親正 慶長5年(1600)生駒親正の子、一正が家康より所領を安堵される
寛永17年(1640)出羽矢島へ転封
寛永19年
(1642) 
12万石  松平頼重(家門)常陸下館より入封   

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