日本の城ある記(四国の城・今治城)

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 今治城  (いまばりじょう)

訪問記 
 雨に煙るお城の姿がこれほど美しものだと感じたのは今回が初めてだ。もっとも、雨の日のお城見物などこれまでに記憶にない。雨が降れば余程のことがない限り外出しないのが私の主義だ。今回はその余程のことがあったわけではないが、天気予報では午後には回復するとのことであったので出かけた。今日は四国でのお城めぐりの最終日である。予定では松山城を見学することになっているが、雨の予報だったので昨日のうちに済ました。道後温泉に宿をとっていたが、昨日の夜と今日の朝の二度お湯に浸かれば充分だ。お城見物より松山市内を散策していた方が良いというカミさんを今治から尾道に架かるしまなみ海道をドライブしようと誘い出して出発。残念ながら?しまなみ海道は濃い霧のため視界不良。橋を二つほどわたってUターン。予定通り今治城に向かう。
 今治は北に来島海峡、東に燧灘が続く交通の要所。古代にはこの地に伊予国の国府、国分寺も置かれた。戦国時代に伊予今治地域を支配していたのは能島村上水軍。その居城は唐子浜に近い山側の国府城であったが、関ヶ原の武功で伊予半国22万国の領主となった藤堂高虎はそこから3kmほど離れた”今張”浜に築城する。慶長7年(1602)に築城に着手。このとき国府城の石垣を活用、かつ水運を利用してわずか2年後の慶長9年(1604)には完成させた。5層の天守も同時に建てられた。
 今治城は瀬戸内海に面した海城。さすが築城の名手、藤堂高虎が築いた城である。本丸の北東に二の丸。北に三の丸を配して主郭とし内堀で囲む。さらに中堀、外堀と三重の堀を築き、外堀を通じて海へ漕ぎだすことができる。残念ながら今は内堀しか残っていないが、それでも内堀の幅は広く、かつての海城の雰囲気を充分に味わえる。
 城の外周を一回りしてから中に入って、ちょっとガッカリ。外から眺めた幻想的な姿が薄らぐ。城跡に宗教関係の建物が同居している。違和感があるがどちらも立派な建物なので、おそらく同居はこれからも長く続くのだろう。それに部外者の知り得ない歴史や事情があるだろうから致し方ない。嫌なものは無いものと思って無視すればいい。
 現在の天守は昭和55年に再建されたもの。藤堂高虎は慶長13年(1608)に伊勢津へ転封となる。この時に天守が解体され、その天守は最初は伊賀上野城の天守とする目論見であったとされるが、慶長15年(1610)天下普請として築かれた丹波亀山城の天守として移築される(ただし、そもそも慶長9年に天守が建てられたか疑問とする説もあるが丹波亀山城の天守は明治初期まで存在した。再建された天守はこの天守を参考として建てられた)。高虎が伊勢津へ転封になった後も今治は飛び地として藤堂家が支配。高虎の養子の高吉が城代として在城した。寛永12年(1635)に高吉は伊賀名張に移り、代わって伊勢長島から松平(久松)定房が入封。以後、松平氏は明治まで藩主を務める。高吉の時代も、松平氏の時代も天守は建てられなかった。
 藤堂高虎が天守を築いたかどうかの議論があるものの、再建された五層六階の天守や櫓は残された石垣の風情を壊すことなく上手く収まっている。雨の日にここまで来た甲斐があると納得した城見物になった。(2013年4月24日)

今治藩 歴代藩主    
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長5年
(1600)
22万石 藤堂高虎(外様)伊予宇和島より入封 慶長13年(1608)高虎は伊勢津へ転封となるが今治は飛び地として残り養子の高吉が城代となる 
寛永12年
(1635) 
3万石  松平(久松)定房(譜代)伊勢長嶋より入封   

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