日本の城ある記(四国の城・松山城)

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 松山城 (まつやまじょう)  

訪問記
 お城見物に然程の興味も示さないカミさんだったが、松山城だけは見たいという。理由は聞かなかったが、こちらから拒む話でもない。ただし、松山城を訪問するのは明日と予定していたのだが、明日は雨の天気予報。今日は四万十川を経て宇和島城、大洲城を巡って道後温泉に泊まる予定。それを、雨が降る前に松山城を見たいというので大洲城を急ぎ足で見学し、そのあと大洲の城下町を散策予定であったものを切り上げて松山に急ぐ。
 松山城の本丸へは県庁裏の登城道、二の丸黒門口登城道など森におおわれた登城道を30分以上の時間をかけて自分の足で登るか、ロープウェイかリフトで安直に登るか、二通りの方法がある。初めて松山城を訪れたとき、まだ私が20代の時だが、県庁の裏から汗をかきながら登った。太陽が照りつける真夏の日だったと記憶している。今回は時間と体力の関係で躊躇なくロープウェイを選択する。
 
 松山城は道後平野の中央に位置する標高約130mの勝山に築かれている。最初に城を築いたのは豊臣秀吉の家臣で賤ヶ岳七本槍の一人である加藤嘉明。嘉明は関ヶ原の戦では家康に与し、その恩賞により伊予半国20万国に封じられ慶長7年(1602)から築城を開始する。勝山の西側山麓に二の丸、西南の山麓に三の丸を造成。山頂には南北に二つの峯があったが、これを切り崩して平らにし、石垣を積んで本丸を造成。大手門から本丸入り口の太鼓門まで六門を配して防護を固めている。本丸には五層の天守が建てられた。しかし嘉明は寛永4年(1627)に会津へ転封となる。26年の歳月をかけて築城を続けた松山城であるが、いまだ未完成。完成を待たずの移動である。おそらく自分の夢や人生の全てをかけての築城であったに違いない。私がサラリーマンの時代”家を新築すると転勤になる”とそんなことを先輩に言われたことがある。嘉明は40万石に加増されての転封であるが、出世を餌にした、正に宮仕えの悲哀物語である。
 加藤嘉明の後は会津より蒲生忠知が20万石で入封する。忠知は引き続き松山城の築城を継続するが、寛永11年(1634)に参勤交代の途中で病死する。忠知には世継ぎとなる嫡子がいなかったためにお家断絶となる。なお、忠知の兄、蒲生忠郷は会津60万石の藩主であったが、嗣子がなく世を去り、本来ならばお家断絶となるところ、当時は上山藩4万石の藩主であった忠知の母が徳川家康の娘であった関係から忠郷の家督を忠知が相続することが許されている。ただし、会津60万石から伊予松山20万石に減封されている。蒲生家二代続いての不運である。
 寛永12年(1635)伊勢桑名の藩主であった松平(久松)定行が15万石で松山に入封する。定行は家康を生んだ於太(伝通院)が松平家を去って久松俊勝と再婚してから生まれた松平定勝の次男。於太が松平家を去ったのは今川と織田の勢力争いの影響であり政略的なもの。そのせいで松平定勝は家康に重要視されていたことから定行も幕府から信頼を得ていた。同時期に定行の弟・定房が今治の藩主となっている。これによりそれまで豊臣秀吉恩顧の外様大名が藩主であった伊予国を徳川家一族が支配することになった。土佐の山内氏、阿波の蜂須賀氏の秀吉ゆかりの大大名を牽制する役目もあったと思われるが、戦をせずとも、長い年月をかけて着々と体制固めをする家康伝来の深慮遠謀が感じられる。
 松山城本丸はほぼ南北に細長い勝山山上を平坦に整地し、石垣で囲まれている。北側に配置された天守郭の四隅に天守、小天守、南隅櫓、北隅櫓が置かれ、それぞれ型門櫓や廊下で結ばれている。天守は現存する12天守の一つで重要文化財に指定されている。当初天守は5層であったが松平定行の時代に3層に改築されている。これは将軍家に遠慮したとも、地盤の弱い天守台が五層の天守を支えきれないためだったともいわれている。
 天明4年(1784)に落雷による火災で天守を含む天守郭の建物が消失。天守は嘉永5年(1852)に再建され、これが現在に残る天守となった。昭和8年(1933)の放火、昭和20年(1945)の空襲により被害を受けるが天守は焼け残る。昭和46年(1871)以降、本丸の太鼓櫓、太鼓門、巽櫓、乾櫓、筒井門、艮門、二の丸多門櫓などが順次再建される。
 山上に建つ天守からは松山市内、瀬戸内海に浮かぶ島々が見渡せる。また松山城本丸の建物群は松山市内のいたる所から眺めることができる。その威容には圧倒される。そうそう、松山城で思い出すことはもう一つある。お城に登るロープウェイの案内嬢が最後に言った「だんだん」という言葉。カミさんは即座に理解していたようだが、私はカミさんから説明を受けるまで知らなかった。以前、NHKで放映された司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」のドラマの中で使われていたという。学生時代に国文学科だったカミさんだが、私は歴史音痴と思っている。そのカミさんが松山城だけは見てみたいと言ったのは多分にそのドラマに影響されてのことだなと、勝手に解釈。それに正岡子規や夏目漱石は松山城の城下町を抜きにしては語れない。「だんだん」とは「ありがとう」というこの地方の方言だそうです。(2013年4月23日)

松山藩 歴代藩主    
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長8年
(1603)
20万石 加藤嘉明(外様)伊予松前より移転  
寛永4年
(1627) 
20万石  蒲生忠知(外様)陸奥会津より入封   
寛永12年
(1635) 
15万石  松平(久松)定行(譜代)伊勢桑名より入封   

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