日本の城ある記(四国の城・大洲城)

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 大洲城  (おおずじょう)

訪問記
 先に訪ねた宇和島が初めて足を踏み入れた土地なら大洲もまた同様で初めて訪れる地である。日本列島のうち大阪以西はあまり関心がなかった私にとって、南伊予地方は僻地に思える。しかし瀬戸内海が日本の中心であったなら大洲は戦略的にも重要な場所にある。
 肱川と久米川の合流地点にある地蔵ヶ岳と呼ばれる丘陵地に最初に城を築いたのは鎌倉時代の末期元徳3年(1331)伊予守護宇都宮氏によるとされる。当初は地蔵ヶ岳城と呼ばれていた。以後宇都宮氏は200年以上にわたり南伊予地方を支配するが、永禄10年(1567)に始まった毛利氏の伊予出兵により宇都宮氏は降伏する。
 天正13年(1585)の秀吉による四国討伐の後、小早川隆景が伊予35万石の領主となり、大洲は小早川氏の支城となった。天正15年(1587)になって秀吉の家臣戸田勝隆が7万石を拝領して大洲城の城主となる。勝隆は秀吉の九州征伐、小田原征伐に従軍し武功をあげるが、朝鮮出兵の文禄の役のとき、文禄3年(1594)に陣中で病死する。
 文禄4年(1595)藤堂高虎は7万石拝領して宇和島、大洲の城主となり、宇和島を居城、大洲を支城とする。高虎は大洲城を近代城郭に改修。城代を置いて城下町を整備する。慶長14年(1609)に淡路洲本から脇坂安治が5万3千石で入封。脇坂氏の時代に4層4階の天守が建てられた。脇坂氏は元和3年(1617)転封となり、代わりに加藤貞康が伯耆米子から6万石で入封。加藤家は明治維新まで大洲藩藩主を務める。
 大洲城は肱川を天然の堀として、同川から引水して内堀、外堀を設け、南東部は丘陵地の稜線を天然の防護壁としている。標高約20mの地蔵ヶ岳の山頂に本丸、北に北の丸、南に二の丸、内堀を挟んで三の丸を配置。本丸上段に4層4階の天守を建て、台所櫓、多門櫓、物見櫓、高欄櫓が取り囲む。2重の台所櫓、同じく2重の高麗櫓は現存建物だが、天守は明治になって老朽化のため取り壊さ、平成16年(2004)に木造建築で再建された。(2013年3月23日)
 

大洲藩 歴代藩主    
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
今治藩支城 藤堂高虎(外様) 慶長13年(1608)伊勢津へ転封 
慶長14年
(1609) 
5万3千石  脇坂安治(外様)淡路洲本より入封   
元和3年
(1617) 
6万石  加藤貞泰(外様)伯耆米子より入封   

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