天正13年(1585)の秀吉による四国討伐の後、小早川隆景が伊予35万石の領主となり、大洲は小早川氏の支城となった。天正15年(1587)になって秀吉の家臣戸田勝隆が7万石を拝領して大洲城の城主となる。勝隆は秀吉の九州征伐、小田原征伐に従軍し武功をあげるが、朝鮮出兵の文禄の役のとき、文禄3年(1594)に陣中で病死する。
文禄4年(1595)藤堂高虎は7万石拝領して宇和島、大洲の城主となり、宇和島を居城、大洲を支城とする。高虎は大洲城を近代城郭に改修。城代を置いて城下町を整備する。慶長14年(1609)に淡路洲本から脇坂安治が5万3千石で入封。脇坂氏の時代に4層4階の天守が建てられた。脇坂氏は元和3年(1617)転封となり、代わりに加藤貞康が伯耆米子から6万石で入封。加藤家は明治維新まで大洲藩藩主を務める。
大洲城は肱川を天然の堀として、同川から引水して内堀、外堀を設け、南東部は丘陵地の稜線を天然の防護壁としている。標高約20mの地蔵ヶ岳の山頂に本丸、北に北の丸、南に二の丸、内堀を挟んで三の丸を配置。本丸上段に4層4階の天守を建て、台所櫓、多門櫓、物見櫓、高欄櫓が取り囲む。2重の台所櫓、同じく2重の高麗櫓は現存建物だが、天守は明治になって老朽化のため取り壊さ、平成16年(2004)に木造建築で再建された。(2013年3月23日) |