訪問記
高知を立ち、国道56号線を南下。窪川から四万十川の流れに沿って宇和島に向かう。宇和島城はもちろんのこと、宇和島市のある南伊予地方を訪れるのは初めてのこと。
宇和島城は標高約80mの丘陵地に建つ。この地には天慶4年(941)に藤原純友の乱の折、伊予橘氏の一族とされる橘遠保(たちばな とおやす)が伊予警固使として砦を築いたのが最初とされ、鎌倉時代には宇和島地方を勢力下にした西園寺氏が砦を置き、板島丸串城と呼ばれていた。板島は宇和島の旧名。天正13年(1585)の秀吉による四国討伐により、伊予国は小早川隆景の支配となり、隆景の家臣が丸串城に入る。
文禄4年(1595)藤堂高虎が7万石で入封。翌年の慶長元年から6年の歳月をかけて城を大改修する。高虎は慶長5年(1600)に関ヶ原の戦の功により伊予半国22万石に加増されていたが、慶長6年に城を完成させてから国府城へ、次いで慶長9年(1604)に今治城が完成すると、今治城を本拠地とする。
慶長13年(1609)に藤堂高虎が伊勢津へ転封となり、代わりに伊勢津より富田信高が12万石で宇和島に入る。しかし富田信高は慶長18年(1613)に大久保長安事件に連座(?)して改易となり、宇和島は一時的に幕府の直轄地となった。
慶長19年(1614)大坂冬の陣の後、その功により伊達秀宗(政宗の長男)が10万石を得て入封する。なお、秀宗は政宗の長男であるが庶子であり嫡子ではなかった。仙台伊達家は二男で嫡子の忠宗が継承した。秀宗は元和元年(1615)になって宇和島に入る。
宇和島城の創建当時の天守は望楼形の天守であったが、伊達氏2代の藩主宗利は寛文2年(1662)に老朽化した城の修理に着手し、その際に層塔形の天守に改築した。現在残る天守はこの時のもの。3層3階の本瓦葺きで、入り口は唐破風の屋根、初層と2層に千鳥破風、三層の屋根には唐破風が施されている。どこなく戦国時代の趣がする。侘しさを漂わせる古城の雰囲気ではなく、戦場にただ一人立ち、幾万の敵も恐れない古武士の風格がある。
宇和島の伊達家は明治維新まで約250年続く。その間に9代の藩主が務めたが、名君と讃えられた藩主も何人かいる。宇和島藩は10万石の石高であるが、初代藩主の秀村の時代、宗家仙台藩から6万両の借金があり、10万石のうち3万石は返済のために費消した。加えて大阪城の普請、島原の乱のための動員。たびたびの風水害等の自然災害による年貢米の減収。特に享保17年(1732)の蝗害(ウンカの大発生)では9割の減収であったという。藩財政は恒常的に不足し、幕府から1万両を借り受けた時期もあった。その中で5代目藩主村侯(むらとき)は藩財政の改革に着手し、ハゼの木の植栽を奨励して木蝋を特産品とし、和紙の専売化を行ったりする。これは7代藩主宗紀(むねただ)に引き継がれ一応の成果を上げる。それにより弘化元年(1844)に8代目藩主となった宗城(むねなり)の時代には藩財政に多少のゆとりが生れた。宗城は明治維新政府が行った政策を先取りするような殖産振興、富国強兵に努め、大藩の薩摩や鍋島藩が苦労して行った鋼鉄製の大砲の鋳造も行い、そればかりでなく大藩でもできなかった蒸気船の建造を独力で成し遂げている。また、幕府を批判してお尋ね者となった蘭学者の高野長英を一時かくまったりして西洋文明の取入れに熱心であった。さらに長州ではあまり評価されていなかった村田蔵六(のちの大村益次郎)を招いて蘭学教授として取り立て軍制を改革、後に村田蔵六が活躍する切っ掛けを作る。明治維新は薩長肥の大藩にスポットライトがあてられるが、宇和島藩が幕末に果たした役割は決して小さくはない。(2013年4月23日) |