日本の城ある記(四国の城・高知城)

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 高知城  (こうちじょう)

訪問記
 訪れた時はたまたまNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が放映されていた。案の定、高知城も桂浜も観光客で一杯であった。もっとも、高知城も桂浜も有名な観光地。テレビ放映に関係なく見学者は後を絶たないのかもしれない。私の性格は自ら認める天邪鬼である。人気者には、それだけの理由で忌み嫌う傾向がある。坂本龍馬も子供のときには好きだったが、今は少し距離を置いている。こうまでもて囃されると、なんだか胡散臭い人物のように感じてしまう。これは私の僻み根性か。
 高知城を訪れたのは初めてのことである。30年ほど前に高知市を仕事で訪ねたことがあるが、その時は小高い丘の上に建つ高知城の天守閣の屋根を眺めただけで帰った。本当はお城を見学する予定で仕事のスケジュールを立てていたのだが、生憎、仕事先での商談が長引き、時間の余裕がなくなった。いや、あれは商談が長引いたためだけではなかった。実は、徳島から高知に向かう列車の中で財布をスラれたのも理由だった。それもスラれて当然の不注意を私がしたからだった。スーツの上着を座席の窓側のフックに掛けたままトイレに出かけ、戻った時には財布が無かった。高知駅の駅員に事情を話して、そのまま警察に駆け込んだ。その所為で仕事先へは約束の時間に遅れてしまって、結果として時間の余裕がなくなった。それ以降、今日まで高知を訪れたことがない。
 高知城は昔からの天守が残る数少ないお城の一つである。昔からの天守閣が残るお城は12カ所あるそうだから、これで7ヵ所見たことになり、後は、丸岡城、姫路城、備中松山城、丸亀城、宇和島城である。丸岡城を除いて、いずれも瀬戸内海に面した都市にあるので近いうちに集中的に見てやろうと思う。もっとも、既に訪れたお城でもそのほとんどは写真として記録を残していない。何れまた訪ねることになる。  高知城は規模こそ小さいが風格のある天守閣。わざわざ訪ねただけの価値はあると満足した。大坂城も名古屋城も外から見るだけならいいが、やはり中に入れば造り物のセットだ。侍が駆け回った臨場感が伝わらない。高知城は、板の間を歩くだけで当時が偲ばれる思いがする。もう少し、観光客が少なければ時間をかけて見ていたろうが、流れ作業のような見学が少し残念だった。(2010年6月13日)
 南北朝時代(延元元年・1336〜元中9年・1392)にこの地の豪族・大高坂松王丸が大高坂山に城を構えたのが高知城の最初といわれる。松王丸は南朝方に与して、延元3年(1338)後醍醐天皇の第7子、満良親王を迎える。しかし、松王丸は興国2年(1341)北朝方の細川弾定、佐伯経定と戦い落城。以後、廃城となった。
 室町時代、長宗我部元親は四国一帯を支配するほどの勢力を誇っていたが、天正13年(1585)の秀吉の四国征伐に敗れ、秀吉の九州遠征に従軍した後、土佐一国を安堵されて天正15年(1587)に大高坂山に築城した。
 慶長6年(1601)関ヶ原の戦において元親の子、盛親は西軍に与して改易となり、代わって山内一豊が遠州掛川から20万2千石の禄高を得て入封した。一豊は当初、浦戸城に入ったが、城下町を築くには狭く、大高坂山に築城と城下町の整備を行った。慶長8年(1603)には本丸と二の丸が完成し、一豊はここに移った。この時、大高坂城は河中山城と改名された。   
 二代目の忠義の代になり、度重なる洪水被害を被り、河中の名を忌み嫌って、慶長15年(1610)に城の名を「高智山城」と改名した。以後、省略されて高知城と呼ばれるようになり、城下の名も高知と呼称されるようになった。もっとも改名によって洪水被害を被らなくなったかどうかは定かでないが、幕末まで山内家が改易されることなく土佐の城主であり続けた。
 一豊の時代の天守閣は、前任地の掛川城天守を模したものといわれている。享保12年(1727)城下が大火に見舞われ、天守閣も焼失した。寛延元年(1748)に天守の他、櫓、門などが完成。現在みられる建造物はこの時に再建されたものである。天守閣は焼失した城を忠実に再現したといわれ、四重六階建ての天守である。
 幕末、土佐藩は薩長同盟の仲介や、徳川慶喜の大政奉還に主導的な役割を果たしたとされる。坂本龍馬はあまりにも有名だが、板垣退助、中江兆民などの民権論者も輩出したのは土佐の風土がもたらしたものかもしれない。 
 

土佐藩 歴代藩主    
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長6
(1601)
20万2千石  山内一豊(外様)遠江掛川より入封   

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