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豊前 小倉城

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 小倉を訪れたのは初めてのこと。小倉と聞けば三船敏郎主演の映画、無法松の一生、小倉祇園太鼓が真っ先に頭に浮かぶが、JR小倉駅に着いて映画のイメージとはほど遠い近代的な街の様子に驚く。もっとも映画が公開されたのは私が中学生の頃だったと記憶しているから、60年も昔のこと。しかも映画の舞台は戦前のことだから街の様子が映画のイメージと違っているのは当たり前のことだ。小倉は北九州市の一部、九州では福岡市に次いで人口の多い都市の中核にある。新型コロナウイルスの影響でで全国的に閉塞感に囚われているが、訪れた日が日曜日ということもあってか、小倉の町は人の往来も多く活気に満ちている。小倉祇園太鼓の熱気が伝わってくるようだ。
 小倉城はJR小倉駅から徒歩で15分ほどの距離にある。関門海峡に流れる紫川(むらさきがわ)の河口に築かれた輪郭式平城である。現在は埋め立てが進んで海に接していないが、築城当時は紫川を天然の堀とし城域は海岸線に接して築かれており、海城でもあった。
 この地に城が築かれたのは鎌倉時代の文永年間(1264〜1275)の頃とされる。 戦国時代は大内氏と大友氏による攻防の舞台となり、永禄12年(1569)頃は大友氏の家臣であった高橋鑑種(あきたね)が小倉城の城主であった。
 天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州侵攻により高橋氏は小倉城を開城。代わりに秀吉の家臣・森勝信が豊前国で6万石を拝領して小倉城を居城とする。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で森勝信は西軍に与し、敗北により改易。代わりに豊前一国と豊後の一部約39万石を拝領した細川忠興が小倉を支配する。忠興は当初は中津城を居城とするが、慶長6年(1602)から小倉城を7年掛けて大改修し中津城から小倉に移っている。本丸、北の丸、松の丸、二の丸、三の丸で構成された総構えの城郭となる。高さ約17mの石垣の天守台の上に約23mの高さを誇る四層五階の天守閣が建てられた。
 寛永9年(1632)細川氏は肥後54万石へ転封となり、小笠原忠真(ただざね)が豊前国のうち15万石を拝領して小倉城を居城とする。以後、江戸末期まで小笠原氏が小倉城主を務める。小笠原家は新羅三郎義光の流れを汲む清和源氏の家系。武家の礼法「小笠原流」の宗家として有名。
 小倉城天守は天保8年(1837)に失火により焼失する。以後、江戸時代に再建されることはなかった。現在ある天守閣は昭和34年(1959)に再建されたもの。四層五階で、最上階は下層より広く張り出した層塔型の天守は江戸時代も今も同じだが、再建された天守には唐破風や入母屋破風が組み入れられている。もともとは破風などの装飾的な造りはなかった。最上階だけが黒壁で、他は白壁の簡素な造りであった。それでもこの特異な姿は他を威圧するに十分な効果があったようだ。小倉の人々だけでなく他の大名家から視察があるほどの人気があったようだ。
 小倉藩小笠原家は九州屈指の譜代大名であり、慶応2年(1866)にはじまる第二次長州征伐には幕府軍の立場で参戦する。小倉藩は唐津藩の藩主で老中の小笠原長行の指揮のもと、柳河藩、久留米藩、熊本藩と共に小倉口での戦闘に加わる。しかし長州藩の奇兵隊に敗れ、小倉藩は城を自焼して田川郡香春(たがわぐん かわら)へ退却する。
 100を超えていたとされる櫓や城内の建物は全て残っていないが、細川氏の時代から始まった祇園祭は小笠原氏の時代には太鼓が加わり、小倉祇園太鼓として現在まで受け継がれている。姿は同じではないが再建された天守も小倉の市民や訪問者に違和感なく親しまれている。野面積みの石垣に囲まれて想像をたくましくすれば遠い昔が甦ってくるようで、しばし歴史の中で遊んだ気分でいられる。(2022年3月13日)
   


小倉城 歴代城主
 家紋  入城時期  禄高  入城時城主  
永禄12年頃
(1587)
高橋鑑種(大友氏家臣)  
天正15年
(1587)
6万石 森勝信(豊臣秀吉家臣) 秀吉の九州侵攻に参陣し武功により豊前国で6万石を拝領。小倉を居城とする。 
慶長5年
(1600)
39万石 細川忠興(外様) 関ヶ原の戦で東軍に与し、39万石を拝領。当初は中津城を居城としたが、小倉城を大改修して居城とする。 
 寛永9年
(1632)
 15万石 小笠原忠真(譜代)  細川氏が熊本に転封により、播磨明石より入封 

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