城ある記
小倉からJR日豊本線で約1時間。中津駅へ。中津駅から15分ほど歩いて中津城に着く。雨を心配したが、今は降っていない。
中津城は中津市内を周防灘に向かって流れる中津川(山国川)の河口付近に築城された梯郭式の平城。堀には水門から海水を引き込み、潮の干満によって堀の水位が増減する。四国の今治城、高松城と並んで日本三大水城の一つとされる。また城の縄張りがほぼ三角形であることから「扇城(せんじょう)」とも呼ばれている。
この地に最初に築城したのは豊臣秀吉の九州平定で戦功を挙げ、天正15年(1587)に豊前国6郡16万石を拝領した黒田如水(孝高)。如水は翌天正16年に中津川城の築城を始める。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で黒田長政(如水の嫡男)は東軍に与し、その戦功により徳川家康より筑前52万石に加増転封される。代わりにが細川忠興が豊前・豊後で39万石を拝領して中津城を支配する。忠興は小倉に城を築いて居城とし、中津城はその支城となり忠興の三男・忠利が入城する。慶長9年(1604)に忠興は家督を忠利に譲り、中津城に移る。忠興は城を現在に残る扇型の縄張りの城郭に大改修する。
寛永9年(1632)細川氏は肥後52万石に転封となり、中津城には小笠原長次が8万石で入封。享保2年(1717)奥平昌成が10万石で入封し、以後明治維新まで奥平氏が城主となる。
現在、本丸の天守台には模擬天守と二重櫓が建っているが、江戸時代に天守が築かれたことはなかったようだ。模擬天守は奥平氏の子孫が中心となって昭和39年(1964)に観光目的で建設されたもので、民間企業が所有管理する全国的にも珍しい運営をされている城郭。(2022年3月13日) |