日本の城ある記(九州の城・杵築城)

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 杵築城  (きつきじょう)

訪問記
 日出(ひじ)城から今回の旅の最後の訪問地である杵築城へ向かう。杵築城は日出町から大分空港へ向かう国道213号線の途中にある。その国道の杵築大橋から昭和45年に建設された模擬天守の雄姿が望まれる。
 杵築城は八坂川と高山川に挟まれた守江湾に面して突出した天然の要害の台地上(台山)に築かれている。
 この地に最初に城を築いたのは建長2年(1250)に鎌倉幕府から八坂郷木付荘に7千石で封じられた大友氏2代目親秀の六男親重とされる。大友親重は台山ではなく竹ノ尾の高台に城を築き、竹ノ尾城と称した。また地名の木付を氏として改名した。室町時代の初期、応永元年(1394)木付氏の4代頼直はより堅固な台山に城を移築し、木付城と称する。戦国時代は大友氏と島津氏の戦闘の舞台となり、天正15年(1587)に島津軍の猛攻を受けるもこれを撃退し、このことから勝山城と称されることもある。しかし宗家である大友義統が文禄2年(1593)に文禄の役(朝鮮出兵)の失態(鳳山からの撤退)の咎により豊臣秀吉により改易させられると、木付氏の17代当主であった統直は自刃し、約350年の間続いた木付氏の統治が終焉する。
 九州を平定し、太閤検地を終えた秀吉は文禄4年(1595))寺社奉行の前田玄似を入城させる。文禄5年(1596)には近江坂本から杉原長房を入封させた。長房は木付城を台地から陸続きの西側の平地(山麓)に移すことを試み、山麓に曲輪を設けて西御殿などを整備する。しかし完成を待たず長房は慶長3年(1598)に但馬豊岡に転封となる。代わって慶長4年(1599)木付城は細川氏の豊前小倉城の支城となり、細川氏の家臣が入城。
 寛永9年(1632)細川氏が肥後熊本へ転封となると、同時期に豊前小倉藩主となった小笠原忠真の弟・小笠原忠知が4万石で入封する。正保2年(1645)に小笠原氏が三河吉田へ転封となると、代わって松平(能見)英親が入封し、このとき杉原長房が手掛けた木付城の平地(山麓)移転を完成させる。松平氏は以後幕末まで藩主を務める。
 現在”木付”は”杵築”と表記されているが、これは正徳2年(1712)6代将軍家宣下賜の朱印状に木付が誤って杵築と書かれていたことに起因するという。これ以後、木付は杵築と表記されるようになったという。
 現在は台地上には模擬天守が建てられ、平地(山麓)に移転した城跡は残っていないが武家屋敷が多く残っていて観光地として賑わいを見せている。(2015年4月26日)

杵築藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長4年
(1599)
小倉城主細川忠興の支城となり、家臣の松井康之、有吉立行が城代として入城
寛永9年
(1632) 
 4万石 小笠原忠知(譜代)入封   
正保2年
(1645) 
3万2千石 松平(能見)英親(譜代)豊後高田より入封  居館を御台地から山麓に移転する 

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