日本の城ある記(九州の城・府内城)

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 府内城  (ふないじょう)

訪問記
 府内城のある大分市はサラリーマンであった時代、二度ほど訪れている。ただし大分市内に用があったわけでなく、ちょっと立ち寄った程度なので記憶に残っているものはない。勿論府内城を訪れることもなかった。
 前日に別府温泉に宿をとり、ゆったりとした気分で府内城を訪れる。最近の城跡巡りは一人旅が多いのだが、今回はカミさんとの二人連れ。城跡ばかりではなく普通の観光地も訪れる。その分城巡りのペースも遅くなる。府内城を訪れた日はちょうど統一地方選挙後半日程の投票日。府内城の駐車場はその選挙投票者のための駐車場となっていた。大分ナンバーのレンタカーは駐車場の整理員の誘導に従ってスムーズに入場。駐車場利用者のほとんどは急ぎ足で出入口に向かうが、私はのんびりと城内をうろつく。幸い天候には恵まれ初夏の陽気の九州を満喫している(2015年4月26日)

 
 府内は豊後国の国府の有ったところ。現在の大分市にある。中世に豊後の国の守護大名であった大友氏が築いた城下町は府内と呼ばれ、その中心に大友氏の館があり、その館は約200m四方の典型的な守護館であったと推測されている。大友氏の館と同じ府内(大分市)にある府内城の歴史はそれよりもずっと新しい。大友氏は文禄の役(朝鮮出兵)の咎によって改易させられ、その後慶長2年(1597)に福原直高(石田三成の妹婿)が12万石を拝領してこの地を支配。大友氏館を廃して大分川の河口で大友氏の時代に舟の荷役を行っていた”荷降”と呼ばれた場所に新城の築城を開始した。約2年の歳月を経て本丸、二の丸、三の丸が完成。築城場所を”荷降”から縁起を担いで”荷揚”に改称して新城も”荷揚城”と呼ばれた。しかし城が完成した慶長4年(1599)に石田三成が失脚すると府内の領地は没収されて改易。直高の入封前に府内の代官であった早川長政が2万石を領して入城する。早川長政は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で西軍に与し、戦後に改易させられる。
 慶長6年(1601)に豊後国東郡高田で1万3千石領主であった竹中重利が2万石を拝領して入城。城を大改修して四層の天守閣を建てる。府内城の北側は大分湾に面し、城郭は本丸、西の丸、東の丸、山里丸、北の丸で構成された梯郭式。城下町を碁盤の目状に区画し、今日に残る市街の基礎を造る。元和元年(1615)に重利が没して、その子重義が後を継ぐ。重義は寛永6年(1629)に長崎奉行に任じられるが、不正があったとして寛永10年(1633)に切腹させられる。これにより府内藩竹中氏は廃絶となる。その後は日根野氏、松平(大給)氏が入封。松平(大給)氏は明治維新まで続くが、府内城の規模に比して禄高は2万石程度と低い。
 現在府内城には宗門櫓、人質櫓が現存し、二の丸の到着櫓、大手門、北の丸を結ぶ屋根つきの橋が復元されている。

府内藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長6年
(1601)
2万石 竹中重利(外様)豊後高田より入封
寛永11年
(1634) 
2万石 日根野吉明(外様)下野壬生より入封   
万治元年
(1658) 
 2万2千石 松平(大給)忠昭(譜代)豊後高松より入封   

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