日本の城ある記(九州の城)

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 臼杵城  (うすきじょう)

訪問記
 臼杵は初めて訪れた地。一度は訪れたいと思っていたのがようやく実現した。ただし、訪れたいと思っていた一番の理由はお城見物ではなく臼杵にある石仏を見るため。岡城を訪ねた後に国道502号線を車で走り臼杵の石仏を見学。臼杵城はその後に立ち寄る。
 臼杵城は西が干潮時に陸に繋がるだけで他の三面は海に面した天然の要害の地である丹生島に築かれた城。ただし現在は埋め立てにより四方を陸に囲まれている。
 永禄5年(1562)毛利氏との戦に敗れた大友宗麟(義鎮)が丹生島に城を築いたのが臼杵城の始まりとされる。当初は丹生島城と呼ばれた。宗麟は天正4年(1576)家督を嫡男の大友義統に譲り府内(大分)大友館から丹生島城に移り隠居する。ただし隠居といっても実権を維持し、義統との二元政治が始まる。
 天正5年(1577)薩摩島津氏の日向侵攻を迎え討つため宗麟は義統と共に大軍を率いて出陣するが大敗(耳川の戦)。なお、宗麟は耳川の戦いの前年に宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受けて正式にキリスト教徒となっている。耳川の戦いの後、大友領内の国人の反乱が相次ぎ、また二元政治の確執から宗麟と義統が対立。大友氏の勢力は急激に衰退する。宗麟は織田信長に接近して島津氏との和睦を斡旋してもらうが、信長が本能寺で死亡したことで和睦も解消。その後の島津軍の侵攻に対して宗麟は天正14年(1586)豊臣秀吉に大阪城で謁見し支援を要請。これを契機として天正15年(1587)に秀吉の九州平定が始まる。島津氏の降伏後、大友義統は豊後一国を安堵されるが宗麟は島津氏の降伏直前に病死する。
 大友義統は文禄2年(1593)の文禄の役(朝鮮出兵)で鳳山から撤退したことの咎を受けて改易となり、石田三成の妹婿である福原直高が臼杵城に入る。次いで慶長2年(1597)6万5千石を拝領して太田一吉が城主となる。太田一吉は近世城郭として城を大改修し、現在見られる姿の礎を築く。
 太田一吉は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦に甥の太田政成を東軍に、息子の一成を西軍に与させて自身は病気と称して臼杵城に籠城。しかし西軍に味方するものと誤解されて東軍方の黒田如水と岡城の中川秀成に攻撃され開城。この後美濃郡上八幡より稲葉貞通が5万石を拝領して入城。稲葉氏は明治維新まで15代にわたり領主となり臼杵城を居城とする。(2015年4月25日)

臼杵藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長5年
(1600)
5万石 稲葉貞通(外様)美濃郡上八幡より入封

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