日本の城ある記(九州の城・岡城)

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 岡城 (おかじょう)

訪問記
 岡城の歴史は知らなくとも滝廉太郎の荒城の月は知っている。これは私だけではないだろう。いや、近頃のお城ブームでお城に関する知識も充分に持ち合わせている人も多くなっているかもしれない。私は薄っぺらいガイドブック程度の知識はあるが、それ以上の知識はない。知識よりも現場での感覚を大切にする主義。裏返していえば、わざわざ事前勉強して知識を得るのが面倒なだけ。
 岡城は石垣が残るだけで建造物はない。見事な石垣が残っているので城門くらいなら復元してもよさそうだと思うのだが、同行のカミさん曰く「立派に整備したら”荒城”の月のイメージが壊れる」という。なるほど、それもそうだと納得。
 観覧料を払うと巻物風の案内図をくれる。岡城の築城の歴史なども記載されている。何処にでもあるパンフレットを巻物にしただけのことだが、一手間加えることで観覧料が安く感じられる。いや、実際は一手間ではなく制作には結構手間閑かけていて赤字なのかもしれない。
 観覧料を払ってしばらくは平坦な道。土産物屋がスピーカーで流す荒城の月をうるさく感じながら足早に歩けば直ぐに登り口に着く。急登ではあるがそれほどの距離もない。山城ではあるが車を止めた駐車場からはそれほどの高さもない。足腰の弱った老夫婦でも時間をかければなんとかなる。それに大手門まで登ればあとはそれほどの高低差もない。
 関東の山城のほとんどは土塁だが、ここは全てが石垣で築かれている。九州における戦国時代の様子に疎いが、この地で激しい戦闘が繰り広げられていたのだろうか。それとも独立志向の強い九州男児の風土が守りを強くさせているのだろうか。(2015年4月25日)
 岡城の築かれている天神山は標高約320m。城域は東西2500m南北360mと広大である。この地に最初に城を築いたのは伝承によると豊後大野郡緒方荘の国人であった緒方惟栄(おがたこれよし)という。緒方惟栄は平家の平重盛と主従関係を結んでいたが治承4年(1180)の源頼朝の挙兵後に平氏に反旗を翻し、源氏の九州統治に貢献する。その惟栄が文治元年(1185)に源頼朝と仲違した義経を迎えるために築城したのが岡城の始まりという。しかし舟で九州を目指そうとするが播磨の大持浦で捕えられて、この計画は失敗する。
 南北朝時代、建武元年(1334)に豊後守護大友氏の一族、志賀貞朝が後醍醐天皇の指示を受けて城を拡張し、この時に岡城と名付けたとされる。ただし志賀氏がこの地に入ったのは応安2年(1369)以降で、当初は同じ郡内にあった木牟礼城(きむれじょう)を居城とし、その後に岡城に入ったという説もある。
 天正14年(1586)、豊後に侵攻した薩摩の島津軍により攻撃を受けるが、城主志賀親次の奮闘により撃退。この功績により豊臣秀吉から感状を受けるが、文禄2年(1593)の文禄の役(朝鮮出兵)で豊後国守大友義統が鳳山から撤退したことの責めを受けて所領を没収され、志賀親次も岡城を去ることになる。これに代わり文禄3年(1594)播磨国三木城の中川秀成が岡城に入城。中川氏は戦国時代の城郭を基礎として大規模な改修を行い近世城郭として整備する。現在見られる高石垣はこのときのもの。また、同時に城下町の整備もおこない竹田町が作られた。寛文3年(1663)には西の丸が拡張され、後に西の丸には御殿が設けられて政務の中心となる。
 


岡藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長5年
(1600) 
 7万石 中川秀成(外様)所領を安堵される  文禄3年(1594)秀吉によって播磨三木より入封。関ヶ原の戦後に家康に与して西軍であった臼杵城を攻め、その功績により所領を安堵される。 

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