訪問記
熊本城を訪れたのは今回で2度目。最初に訪れたのは今から40年ほど前なので、記憶にほとんど残っていない。当時すでに大小の天守閣は復元されていたので、その姿を目にしていたに違いないのだろうがその記憶がない。思い出として残っているのは新、旧方式で積み上げられた高石垣の勾配の違い。私の熊本城についての思い出はこの石垣しかなかった。今回訪れて、復元された大小の天守や江戸期の建造物である宇土櫓を見て、さすが天下の名城といわれるだけのことはあると、そのスケールの壮大さに改めて感銘を受ける。
熊本城は豊臣秀吉の家臣であった加藤清正が築いた城。しかし清正は慶長16年(1611)に50歳で病死する。三男・忠弘が後を継ぐが、寛永9年(1632)に改易となり加藤氏の熊本はこれで途絶える。以後熊本城は幕末までの長きにわたり細川氏が領主として居城とするが、私には熊本城=加藤清正のイメージしかない。私の郷里出身の清正に肩入れするだけの理由ではないが、世の中が落ち着き始めた時代の武将に比べれば戦国時代を生き抜いた武将の生き様は強烈な印象として残る。城もまた家康好みの白い漆喰の外壁でなく、黒く塗られた板壁の城は、それだけで戦国武将の居城としての存在感がある。とはいえ”熊本城は清正の城”との思いは私だけのものでは、そう思っていたら櫨方(はぜかた)門の前に清正の銅像が建っている。熊本城は清正の城と、そう考える人が他にもいるのだと思うと嬉しくなる。熊本城は広大である。私が訪れたのは午後の3時過ぎ、閉門が5時のため全てを見ることは叶わなかったが気分爽快にお城見物ができ、十分に堪能した。(2015年4月23日)
加藤清正がこの地に城を築く以前、ここは茶臼山と呼ばれた丘陵地であったという。応仁年間(1467〜1469)にこの地の国人・菊池一族の出田(いでた)秀信が茶臼山に最初に城を築き、次いで明応5年(1496)には鹿子木親員(かのこぎちかかず)が城を築き”隈本城”と呼んだとされる。その後、この地は大友氏、島津氏、菊池氏、龍造寺氏などが争う戦乱の地となり、天文19年(1550)に大友氏の支配下となる。
天正15年(1587)の秀吉による九州平定で秀吉配下の佐々成政が肥後一国の領主となる。その成政は検知の強行などにより国衆の一揆を引き起こし、その責めを負って切腹。天正16年(1588)に加藤清正が肥後の北半分19万5千石の領主として隈本城に入城。因みに南半分は小西行長が領主となる。それまでの清正は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦で戦功をあげ「七本槍」の一人に数えられていたが城主の経験はなく秀吉配下の侍大将でしかなかった。この時清正は27歳。清正は国衆と呼ばれる土豪を統治し、新田開発や南蛮貿易を手掛け積極的な領地経営に乗り出す。文禄元年(1592)からの文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では約7年間戦う。慶長3年(1598)に秀吉が没し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では石田三成、小西行長との確執から家康に与し、その功によって肥後一国の領主となる。
清正は慶長6年(1601)に隈本城を取り込む形で築城を開始、慶長12年(1607)に完成させる。このとき隈本から熊本に地名を改称した。現在残る城の縄張りもこの時完成したとされる。なお、築城の開始時期については慶長4年とする説や諸説がある。
清正は慶長16年(1611)に秀吉の遺児・秀頼を二条城で徳川家康に会見させることに尽力し、この会見から熊本への帰路の船中にて発病し没する。清正は天正15年(1587)から慶長16年(1611)まで肥後国の領主であったが、朝鮮出兵の時期を除けば17年ほどの短期間である。それにもかかわらず熊本城に清正の銅像が建つほど地元に慕われたのは清正が領地経営に精力的に取り組み、その功績がいかに偉大であったかの証でもある。清正の後は三男の忠広が継ぐが、寛永9年(1632)に改易となり、忠広は1万石を得て出羽庄内藩預かりとなる。改易の理由は様々あるが、豊臣恩顧の清正とその後継者を徳川政権が忌していたことが根底にあったと推測される。加藤家改易の後、豊前小倉から細川忠利が入封。細川家は以後明治まで藩主を務める。
明治4年(1871)熊本城に鎮西鎮台(熊本鎮台)の本営が置かれ、城の一部が取り壊される。また明治9年(1876)の神風連の乱、明治10年(1877)の西南戦争で城の大半が焼失する。現在、宇土櫓など10ほどの櫓(倉庫)が残り、多くの堀の石垣などが完全な形で残っている。昭和35年(1960)に大小天守が外観復元され、現在も清正築城時代の姿に復元する計画が進行中。 |