日本の城ある記(九州の城・飫肥城)

 九州の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 飫肥城  (おびじょう)

訪問記
 南九州に、商用であれ私用であれ、赴くたびに飫肥を訪ねてみたいと思っていた。宮崎市までは何度も足を踏み入れたが、やはり飫肥はついでに訪ねるには少し遠い。飫肥の町に特別な拘りがあったのではないが、飫肥の言葉の響きが妙に気になっていただけのことだが、訪ねなかったことが何時までも心残りに感じていた。
 鹿児島・指宿を旅行しようとカミさんの提案で、それならばと、宮崎地方も旅先に組み入れることにし、まず宮崎空港を出発点に選んだ。空港でレンタカーを借りて、日南海岸を南下。青島、鵜戸神宮を見て日南市に入り、そこから飫肥に向かった。
 飫肥について、まず最初に飫肥城を訪ねるが、大手門の前に飫肥天を食べさせる料理屋がある。今日中に鹿児島までゆく予定で、車を飛ばしてきた所為で昼食を済ませていなかった。とりあえず名物の飫肥天をほうぼることにした。さつま揚げと違って柔らかい触感である。私には少々もの足らない感じがしたが、おやつ感覚と思えば納得できる。
 飫肥城は、平日ということもあってか他の観光客に出会うことがなかった。人だかりがしていればすぐに迷惑顔をする私だが、誰にも会わないとなると少々さみしい気分になる。飫肥天の料理屋には何人かの客がいたが、城跡には興味がないのだろうか。飫肥城は伊藤氏3万6千石の居城である。当時から残る建物は無く、御殿、櫓門が再建されているだけだが、趣のある城跡である。私はしばらくこの場に立ち止っていたかったが、同行のカミさんは退屈のようだ。ここがNHKの朝のテレビ小説の舞台になったことぐらいしか興味がないようだ。南九州の旅は今日が初日。まだこの先は長い。同行者の気分が悪化しないうちに飫肥城を離れることにした。(2006年5月28日)
  
 飫肥城は、南北朝の時代(延元元年・1336〜元中9年・1392)に宇佐八幡宮の神官の出で、日向の武士団として勢力を伸ばした土持氏が築城したのが始まりとされる。室町時代末期の長禄2年(1458)九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏に対抗するため、島津一族で志布志城主であった新納忠続を飫肥城に入城させた。  
 文明16年(1484)伊東祐国、祐邑の兄弟が飫肥城攻めを開始、これより伊東、島津の争いが103年間続くことになる。 永禄11年(1568)には伊東義祐が飫肥城を攻略し、二男の祐兵を城主とした。天正元年(1572)に伊東氏が木崎原の戦で敗退して、天正5年(1577)には飫肥城は再び島津氏の支配下となる。
 飫肥城を失った伊東祐兵は秀吉に仕え、九州征伐に参加して軍功をあげ、天正15年(1587)再び飫肥の土地を与えられて城主に返り咲く。伊東祐兵は関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、豊臣系の外様大名という微妙な立場ながら領地を安堵された。これ以降、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで伊東家が飫肥城の城主であった。
 飫肥城は酒谷川と東北の山川に挟まれた丘陵地にある。中世城郭の形態を残した縄張り構造になっており、本丸、中の丸、松尾丸等の多くの曲が設けられていた。城下には昔ながらの面影を残す侍屋敷群も残っている。
 

飫肥藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
3万6千石  伊東祐慶(外様)関ヶ原の役で東軍に付与。所領を安堵される

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.