日本の城ある記(九州の城・鹿児島城)

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 鹿児島城  (かごしまじょう)

訪問記
 
鹿児島へは仕事で何度も訪れたが、鹿児島城を訪ねるのは今回が初めてのこと。前の日に飫肥城を見て鹿児島市内に宿をとり、翌朝、市内を散策する途中で鹿児島城に寄る。この後、磯公園を見て錦江湾に沿って南下。知覧に寄ってから指宿を目指す予定。
 実のところ鹿児島市内のどこに城跡があるのか、現地でガイドブックを見るまで知らなかった。意外にも、何度も訪れた仕事先のすぐ近くに鹿児島城があった。これまで城跡見物を思いつかなかったのが不思議だ。島津72万石の城下町であるから、どこかにお城の跡が残っているとは思っていたが、それを見たいという気になれなかったのは何故だろう。多分、幕末から維新にかけての島津藩の活躍が強烈で、それは鹿児島という狭い地域のことではなく、まさに日本の中心部で起こった出来事として捉えていたので、鹿児島という地域そのものにはさほどの興味を持っていなかったためかもしれない。
 ともあれ、鹿児島城に行って、72万石の大大名にしてはその規模の小さいのに驚く。もっとも、江戸時代にはもっと大規模な城郭を備えていたかもしれないが、残された石垣からは想像が出来ない。九州の最南端に位置する地理的な条件が、他国からの大規模な武力での侵略に備える必要がなかったことが理由か。領内の各地に外城を設けて守りとしたのが理由かもしれない。
 鹿児島城に行く途中に西郷隆盛の像があった。この地は鎌倉時代に守護職であった島津家が江戸末期までの長きにわたって支配したところ。島津家歴代当主の銅像がどこかにあるのだろうが、それよりも目立つ場所に下級家臣であった西郷隆盛の銅像がそびえ、現在に至るまで尊敬されているのが不思議だ。西郷は維新の立役者であるが、西南戦争では政府軍を敵に回して敗れ去った。そんな事実も西郷の果たした功績を汚してはいないようだ。   (2006年5月29日)
   
 鹿児島城は慶長7年(1602)に島津家久が中世の上山城の跡である標高約100mの城山の東麓に築いた平城。東西約200m、南北約750mの区域を石垣・水掘で囲っていた。当初より天守や重層の櫓などは建築されなかったようだ。中世城郭の伝統を踏襲したものだが、戦国時代から島津氏は領内各地の要害に城壁を築いて守りを固めていたため本城を強固にすることは必要なかった。江戸時代になってからの一国一城令にも外城は廃棄されることなく存在していた 
 関ヶ原の戦で島津氏は西軍に与したが、徳川家康は島津氏の所領を安堵した。島津氏を討伐することの労力を考えてのことだ。そのためか、幕藩体制にあっても鹿児島藩は独立国のようであり、慶長14年(1609)琉球に侵攻してこれを併合。琉球を通じての密貿易で財力を蓄え、これが維新の戦費調達につながったといわれる。鹿児島藩は表高77万石だが農業に不向きなシラス台地が領内の大半を占め、実質石高は35万五石程度であったという。そのうえ外城制度を維持するため士分のものは全人口の40%余りを占めており貿易での利益がなければ藩財政は破綻していたともいえる。 また領内に100カ所ほどあったという外城は外敵を防御する役割を担うものであるが、在郷武士の住居群であり、これが郷中制度・郷中教育という領内支配のシステムをつくりあげていた。知覧もその一つで、整然とした街並みに石垣で囲まれた住居。戦の際には水を引いて堀の役割を果たすように造られていたとか。また、各住居の庭園は名勝庭園として国の指定を受けている。
 西南戦争では鹿児島城、城山一帯は激戦地となる。西郷隆盛の最期の場所もここ城山にある。現在は一般に開放されて公共建物があるほか公園として整備されている。
  

仙厳園(磯御殿)

知覧

鹿児島(薩摩)藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
慶長5年
(1600)
65万石
(後に77万石に加増)
島津家久(外様) 関ヶ原の戦で西軍に与したが徳川四天王の一人井伊直政の取りなしで所領を安堵され島津義弘の三男家久が当主となる。

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