日本の城ある記(沖縄の城・今帰仁城)

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 今帰仁城 (なきじんじょう)   

訪問記 
 
「今帰仁」と書いて「なきじん」と読む。言語学については全くの無知なので、もともとの意味が何であるのかさっぱり分からない。今帰仁村のホームページには”古くは「みやきせん」と言われ、1471年の海東諸国記に「伊麻寄時利」と表記され、近世になって「今帰仁」となったと書いてある。「城」のことを「ぐすく」と言うので、「なきじんじょう」とも「なきじんぐすく」とも、両方の言い方がある。何時か沖縄・琉球の言葉を調べてみたい。
 今帰仁城を訪ねる前に座喜味城を訪ねたので、琉球の城の持つ不思議なパワーには多少は慣れてはいたが、それでも日本の城郭にはない石の質量感、万里の長城を彷彿させる石塀を実際に肌で感じると、なんとも形容しがたい怪しい力に圧倒される。
 少し前に訪ねた韓国の城跡のイメージと重なる部分もある。中国の城跡は写真でしか見たことがないので感覚的に捉えられないが、やはり琉球の歴史は、少なくとも薩摩の支配時代以前は日本よりも中国、朝鮮の文化に色濃く染まっていたようだ。いや、これこそが琉球王国が独自に創り上げた文化なのだろうか。
 城跡から東シナ海が眺められる。日本を出た時はコートを着ていたが、ここではTシャツ一枚でも寒くはない。気温は20度を超えている。青く広がる海を見ていると、この場で戦闘が行われたことなど想像できない長閑な気分になる。時間に余裕があればいつまでも佇んでいたい気分だ。(2012年3月4日) 
 
 今帰仁城は沖縄本島北部、本部半島にある。13世紀ごろに築城されたらしいのだが、誰が 何時頃に築城したのか正確には分かっていない。琉球王国が成立する以前の沖縄本島は北部、中部、南部に分かれて、それぞれに王がいたが、今帰仁城は「北山の国王・北山王」の居城であった。14世紀に書かれた中国の書には琉球国山北王として「?尼芝(はにじ)」「a(みん)」「拳安知(はんあんち)」の名がある。城跡からは中国製の陶器が大量に発掘されており、中国との交易が盛んに行われていたようだ。
 1416年北山王は中山王・尚巴志によって滅ぼされる。今帰仁城は強固な城で中山王の武力による攻撃は撃退したが、凋落によって敗北したとされる。これ以後、中山王は北部地域の支配管理のために監守を置き、直後は護佐丸(座喜味城主)を、1422年には尚巴志の第2子・尚忠を監守として派遣。
 1609年(慶長14年)には薩摩の侵攻に遭い、城は炎上する。薩摩は中山王を介して琉球を支配することになる。1665年以降は監守が首里に引き上げて城は無人になるが、地域の精神的な拠り所として祠を祀り、今帰仁城は崇拝の場所となった。
 
 今帰仁城は標高約100mの石灰岩でできたほぼ独立した丘の上に築かれている。主郭を山頂部に築き、主郭を含む10の郭を梯子段状に配した山城である。城郭を外敵から守る城壁はねずみ色の石灰岩で築かれ、自然の地形を利用して蛇行しながら連鎖的に重なっている。城壁の長さは1.5kmにもなる。なだらかな斜面を這うように築かれた城壁は万里の長城を想像させる。城の北東部は約70mの絶壁となっていて、その下は志慶真川が流れている。城内は水源に乏しく、この川に張り出すように郭が築かれていて、水を汲み上げていたという。
 2000年(平成12年)に今帰仁城は「座喜味城」「勝連城」「中城城」「首里城」とともに世界遺産に登録された。
 

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