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歳時記 2020

  年越し
2020.12.31
大晦日
2020.12.31
御用納め 仕事納め
2020.12.28
冬至
2020.12.21
 煤払い
2020.12.13
大雪
2020.12.07
小雪
2020.11.22
立冬
2020.11.07
十三夜
2020.10.29
霜降
2020.10.23
寒露
2020.10.08
中秋の名月(十五夜)
2020.10.01
秋分・お彼岸
2020.09.22
白露
2020.09.07
二百十日
2020.08.31
処暑
2020.08.23
立秋
2020.08.07
大暑
2020.07.22
土用 土用の丑
2020.07.19
七夕
2020.07.07
小暑
2020.07.07
半夏生
2020.07.01
大祓(夏越の祓)
2020.06.30
夏至
2020.06.21
入梅
2020.06.10
芒種
2020.06.05
小満
2020.05.20
母の日
2020.05.10
立夏・端午の節句
2020.05.05
八十八夜
2020.05.01
穀雨
2020.04.19
灌仏
2020.04.08
清明
2020.04.04
エイプリルフール
2020.04.01
天竺老人
2020.03.31


 年越し
2020.12.31
 

 のみては寝 くうてはやがて 子の年の あけなば春も うしになるべし
                               平秩東作(へづつ とうさく) 安永9年(1780)
 安永9年(1780)の子の年に詠んだ狂歌。翌年の安永10年は牛の年。「食べて直ぐに寝ると牛になる」という諺を詠み込んでいる。ちょうど令和2年もねずみ(子)年。従って新しい年の令和3年は牛(丑)年。
 令和2年は新型コロナウイルスで明け暮れた一年。関係者は緊張の連続かつ多忙。とてもぐうたらと寝てはいられなかっただろう。一方私はといえば、 ほぼ飲んでは寝、喰うては寝るの毎日。おまけに食べて飲んで寝る他に何をしていたのかも定かに覚えていない。これで牛にならなかったら諺は明らかに間違っている。それでもこんな生活をしていても年を越して新年は確実に来る。
 例年であれば世界中の都市で年越しのイベントが開催されるが、今年はどうなるのだろう。ここにきて世界中で新型コロナウイルスの感染者が急増しているようだ。ウイルスを封じ込めたはずの中国でさえ、感染者が増え始めたというニュースが伝わってきた。おそらく例年通りの年越しのイベントを開催する都市はないのでは。
 もともと私は年越しのイベントに参加することは考えてはいなかったので開催されないことへの不満はない。私にとっては何時もの年越しとなるだけだ。その何時もの年越しも特に変わったことをするわけでもなく、どこの家庭でもするように年越しそばを頂くだけ。例年と違ったことは、正月に家族全員が集まるのを止めたので用意するおせち料理が少なくなり、その準備の手間がなくなったことくらいだ。
 心配は年越した来年のこと。新型コロナウイルスの騒動は当分収まりそうにない気配だが、それでもワクチンが開発され治療薬も早期に出回る状況になってきた。ウイルスが人為的なものでなく自然発生したものであるのなら何時かは終息するのが自然の摂理だ。ウイルス騒動以上に心配なのは世界の政治情勢。新型コロナウイルスの報道の陰に隠れてはいるが何か怪しげな動きが感じられる。来年は後の時代の世界史に登場するような歴史的事件に立ち会う年になるのだろうか。いささか不謹慎な期待もする。・・こんな妄想に至るのも、外出がままならず部屋に籠もっている生活が続いているからか。前期高齢者ではあるが痴ほう症(認知症)になるにはまだ早いから、軽いうつ病にでもなったのだろうか。もっとも世界がどう変化しようが私にできることは何もないに等しい。あれこれ心配することなく、焦らず慌てず、大きく構えて新しい年を迎えよう。来年はきっと良いことが起きると信じている(これも妄想か)。

 今更に 何かをしまん 神武より 二千年来 くれてゆくとし

                             四方赤良(よもの あから)万代狂歌集(文化9年・1812) 

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 大晦日
2020.12.31
 

 大晦日 定めなき世の 定め哉  井原西鶴 三ヶ津撰集(天和2年・1682)

 世の定めとて 大晦日は闇なる事 天の岩戸の神代(かみよ)このかた知れたる事なるに 人みな常に渡世を油断して 毎年ひとつの胸算用ちがい 節季を仕舞ひかね迷惑するは 面々覚悟あしき故なり 一日千金に替へがたし 銭銀(ぜにかね)なくては越されざる冬と春との峠・・・井原西鶴・世間胸算用・元禄5年(1692) 

 12月の最終日であり一年の最終日の12月31日は大晦日(おおみそか・おおつごもり)。井原西鶴が浮世草紙「世間胸算用」を刊行した元禄5年(1692)の時代、商人にとっての大晦日は一年の貸借関係を決済する大切な期限。西鶴は「人の世ははかなく定めのないものだが、大晦日に借金の取り立てだけは必ず訪れる無常なこの世の定めとなっている」と戒めの言葉を句にしている。

 つごもりの夜 いとう暗きに 松どもともして 夜半過ぐるまで 人の門たたき 走りありきて 何事かあらん ことことしくののしりて 足を空に惑ふが 暁がたより さすがに音なくなりむるこそ 年の名残も心ぼそけれ・・・兼好法師 徒然草19段・元徳2年(1330)頃
 

 大晦日を決済期限とする掛け取りの習慣は江戸時代より以前の、はるか昔の平安時代からあったようだ。調べていないのでよく分からないが、人が商業的な活動を始めてそのとき以来から、いや、西鶴が世間胸算用で記述しているように神代の時代から、諸々の貸借は、一年の終わりの大晦日を決済期限としていた習慣があったのかもしれない。

 金はあり かけもはらうて 置炬燵(おきごたつ)とろとろねいりつかん年の夜
 
                        四方赤良(よものあから) 狂歌・徳和歌万載集(天明5年・1785)
 狂歌の作者四方赤良、本名・太田覃(おおた たん)は御徒士から支配勘定にまで出世した幕臣。江戸時代の武士の生活はどっぷりと商業活動の中に組み込まれていたようだ。「大晦日の夜。掛けの支払いも済ませ、残りの金もある。余裕の心持で置炬燵に入っていると、いつの間にか眠ってしまった」と詠んだ句だが、これは願望であろう。実際はやっとの思いで期限の借金を支払い、疲れ果てて眠ろうと置炬燵に足を入れたのだが、火のない置炬燵では寒くて眠ることもできず、悶々として、過ぎた一年を振り返っているのだろう。
 大晦日の文字を目にして、借金の支払い期限が真っ先に頭に浮かんでくるのは私自身の経験からか。今更ながらではあるが先人の言葉を戒としたい。


 此のものは 花の春へと 急ぎ候(そうろう) お通しなされ 年の関守
                        つむりの光 狂歌・徳和歌万載集(天明5年・1785)

 一年の負い目や借金取りから逃れられるようにと、ともかくも早く花の春(正月)が来ることを願う心。ここを乗り切れば何とかなりそうだと、攻められる方もあの手この手の抵抗。攻める方も場所が変われば攻められる方に。どちらも怪我なく頑張れ。結果はどうであれ、花の春は訪れる。 

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御用納め 仕事納め
2020.12.28
 

 サラリーマンを辞めてから10年以上経ったが、12月28日の日付を見ると特段に意識することもなく一年の終わりが来たことをを感じる。40年のサラリーマン生活の間に刷り込まれた習慣はなかなか抜けきれない。「御用納め」は官公庁などで使われる言葉で、私のような民間企業勤めの者は「仕事納め」と言うのが一般的であるが、何故か私には「御用納め」の言葉の方が身近に感じる。語弊があるかもしれないが、仕事を受け身に捉えると「御用」で、私のように何となく受動的に仕事をこなしていた者には「御用納め」の方がしっくりする気がする。それはさておき、民間企業の仕事納めは12月28日と規定されているのではない。12月28日を御用納めとするのはあくまでも官公庁で、これは12月29日から翌年の1月3日までが法令によって休日と定められているから。民間企業、特に小売業や飲食業などのサービス業には、そもそも仕事納めの習慣などない職場もあるのだろう。
 私がサラリーマン生活を始めた時、仕事納めの日は12月30日だったと記憶している。現在は民間企業でももう少し早く仕事納めの日を設定している企業も多いと思われるが当時としてはごく普通であったと思う。当時の金融機関は法律によって12月31日まで業務することになっており、銀行に就職した私の知人は除夜の鐘を銀行の店舗の中で、仕事中に聞くのが当然のことだと言っていた。業務が終わって、その足で職場仲間一同で初詣に行ったという。今なら考えられないような習慣が当たり前の事であったようだ。
 新型コロナウイルスの影響で在宅勤務が広がっているが、現在の御用納め仕事納めの様子はどうなのだろう。私の場合、平成になる前の昭和の時代のことだが、午前中は書類を整理したり身の回りを掃除して仕事らしい仕事をすることもなく、午後になって挨拶程度の簡単な式があり、定時の退社時間を待たずに解散。その後は居酒屋に向かうか雀荘に籠もるか、そのどちらかだった。今の時代、仕事納めの日に一年の労をねぎらうことを目的に社員一同が集まって式典などをする職場はないだろう。おそらく通常通りに仕事をし、通常通りに退社するだけなのだろう。業務に直接的に関係しないことで会社に拘束される時間が短くなるのは歓迎すべきことだが、一方でそれはそれで寂しい気もする。私は良い時代にサラリーマン生活を過ごすことができたのだろうか。それとも無駄に時間を浪費していただけなのだろうか。


  あたらしき 茶袋ひとつ 冬ごもり  
             山本荷兮(やまもと かけい)貞享3年(1686)
 仕事を持たない者にとって御用納めも仕事納めも無縁のことだが、それでもこれから迎える年末年始ををどう過ごすかは気になるところ。例年ならあちこち出掛ける算段もしただろうが、今年は何の予定も立てられない。新型コロナウイルスが終息する目途が見えない。私自身は新型コロナウイルスもインフルエンザウイルスから派生したちょっと悪質な同類と思ってそれほどには深刻には捉えていないが、自由に動き回るには家族を含めた他人の目が気になる。ここ何年かの習慣として正月には家族全員が集まるのだが、今年は取り止めた。新しい茶袋を買い込んではいないが、昔に買い込んだ本でも引っ張り出して年末年始を過ごすつもり。今年の冬は去年より寒さが厳しくなるようだ。

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 冬至
2020.12.21
 

 12月21日は二十四節気の「冬至(とうじ)」。地球の北半球では太陽が最も南から昇り、一年のうちでもっとも昼間の時間が短く、夜の時間が長い日となる。但し日の出の時刻が最も遅いのは冬至の約半月後、最も日の入り時刻が早いのは冬至の約半月前。冬至を境にして太陽の昇る位置が徐々に高くなり(北に移動)昼間の時間が徐々に長くなってゆく。太陽が生まれ変わり「陰気」から「陽気」に変わる転換点であることから古代中国では一年の始まりを冬至の日としていた時期もあったようです。
 冬至の日の行事は古来より世界各地にあるようですが、現代の日本では冬至の日の習慣としてかぼちゃの煮物を食べることと柚子湯に入ることが一般的。我が家でも毎年欠かさずこれを続けている。


 うつくしや 年暮れきりし 夜の空  小林一茶 文政句帖(1822年頃)

 一茶の句は冬至ではなく年の暮れ、おそらく大晦日に詠んだ句と思われますが、この時期の夜空は空気が冴えて澄み切り、神々しくさえ感じられる。一茶は年の瀬の日中の騒々しい雰囲気から解放され、見上げる夜空の星々の輝きに平穏な心を取り戻したのでしょうか。
 今年は冬至の日をピークに木星と土星が大接近する姿が見られるようだ。前回の大接近から約400年ぶりのこと。ただし、その時は太陽に近すぎて実際には観測できなかったようなので、人間の眼で観測できたのは約800年前のことだという。宇宙の出来事は人間の寿命という物差しでは測り得ない時間で動いている。新型コロナの騒動など、瞬時の出来事なのだろう。夜空を見上げて星の輝きを眺めていると、その時間だけは雑念を遠ざけることができる。

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 煤払い
2020・12・13
 
 
 今年は新型コロナウイルスの報道に隠れて存在感が薄れているようだが、それでも扱いは小さくなっても「煤払い(すすはらい)」のニュースに接するといつも通りの年の瀬を思い起こす。もっとも仕事に追われたサラリーマン時代と違って、時間に追われることのない現在は慌ただしさも緊張感もない。その代わりに無為に過ごした一年を顧みて理由のない不安や焦りを感じ、それを打ち消すように部屋の掃除や不要なものの整理で気を紛らわす。私の煤払いは大掃除のまね事で終わる。
 日本の年中行事である「煤払い」は新年を迎えるための行事の一つ。起源は平安時代、一年の厄を祓って新しい年の豊穣を願う目的で宮中を掃き清めたことに由来するという。その後神社仏閣でも行われるようになり、一般的になったのは江戸時代。江戸城では12月13日を正月の準備を始める日として、この日に「煤払い」を行うようになった。当時使われていた宣明暦は12月13日が「鬼宿日(きしゅくにち)=鬼が宿に籠もって外に出ない日⇒安全な日として吉日とされた)」であることから12月13日が選ばれたようだ。この習慣は武家社会を通じて町民層にも広がった。なお、宣明暦は太陰太陽暦で貞観4年(862)から貞享元年(1685)までの823年間、日本で最も長く使用された暦。この暦が使われなくなった以降も、習慣として12月13日を「煤払い」の日として現在まで受け継がれている。


  江戸中で 五六匹喰う 十三日   川柳評万句合・安永7年(1778)

 江戸時代の川柳。十三日が12月の13日であり、煤払いの日であることを理解していないと何のことだか分からない。商家では煤払いのあと、使用人や手伝いの人へ鯨汁を振る舞う習慣があったようです。川柳の作者は江戸の町ではこの日だけで鯨を五、六匹も平らげることに驚いたのだろうか。江戸時代、品川沖で鯨が取れたという話があるようですが、江戸近辺で頻繁にクジラが捕獲され、日常的にクジラ肉が食べられていたのかどうかちょっと疑問。煤払いのあとに鯨汁を振る舞う習慣があったというのは本当の事のようだが、全国から五、六匹の鯨をタイミングよく集めることができたのだろうか。鯨の肉を干し肉にしたり味噌漬けにしたりして長期保存できるように加工したクジラ肉をこの日のために準備していたのだろうか。当時、猪の肉を「山クジラ」といって食べていたようだから、鯨汁の中身は猪の肉だったのかもしれない。そうなら五、六匹では少ないから、これも違っているだろう。などなど・・つまらないことを詮索して巣籠の一日が過ぎてゆく。

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大雪
2020.12.07 
 

  葱(ねぶか)買うて 枯木の中を 帰りけり
                            与謝蕪村・天明4年(1784)

 2020年12月7日は「大雪(たいせつ)」。二十四節気の一つで、本格的に雪が降るころ。とはいえ私が住んでいる関東地方の太平洋岸では雪の降る気配はない。もともと二十四節気は中国の中原地方の気候を基にして定められたもので、日本での季節感とは必ずしも一致しない。それでも今年は暖冬であった去年と比べて山間部では積雪があるようだ。関東に近い山間部でもすでにオープンしているスキー場のニュースが届いている。しかし残念なことに今年は新型コロナウイルスの影響でスキー客も少ないようだ。
 景気対策で行ったgotoトラベル・イートが原因なのだろうか。このところ新型コロナウイルスの感染者が増加している。医療現場も混乱しているというニュースも伝わってくる。でも、ちょっとメディアは煽りすぎではないのか。人が動けば感染が広がることは想定済みの事。あえて言えばこの程度は許容範囲ではないのか。冬場になれば感染者が増加するのは景気刺激策の所為ばかりではなく予想されたことだったはず。多少の混乱があったとしてもこれからの社会生活を考えれば経済状況の回復策は絶対に必要なことだと思う。ウイルスに無防備であってはならないが、無駄に大騒ぎすることなく冷静な対応で日常生活を取り戻す努力をするしかない。
 東京都は65歳以上の高齢者や持病がある人の域外への外出を避けるようにとの要請を出した。私は東京都民ではないが前期高齢者で深刻ではないが持病もある。12月に予定していた旅行を取りやめた。貧乏旅行だから大した金額ではないが、旅行費用は他のもので消費して世の中の景気循環に協力するつもり。このところ旬な食材も値が下がっているようだ。さしあたり葱と白菜と春菊、それに日頃食べないブランド肉でも買って、暖かい部屋で鍋料理を囲むことにしよう。

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 小雪
2020.11.22
 

 2020年11月22日は二十四節気の「小雪(しょうせつ)」。この時期、太平洋岸の都市では雪を見ることはないが雪国からは積雪の便りが届くころ。しかし今年も暖冬気味なのだろうか。立冬の頃は関東地方も冷え込みを感じ山間部では降雪もあったが、「小雪」が近づくにつれて雪国でも最高気温が25度を超す夏日となった日もあった。歳を取った所為か寒さに弱い体質となったようで、私には温暖化は歓迎すべきことだが、自然界全般の影響を考えれば深刻な問題なのだろう。2050年までに温室効果ガスの排出量をゼロにするという日本政府の方針を見守りたい。

  年の市 何しに出たと 人のいふ    小林一茶 文化元年(1804)頃

 今年の酉の市は「三の酉」まである。掲載写真は今年の酉の市を写したものではなく、何年か前の風景。今年はどんな様子だったのだろうか。参加するのに事前の予約が必要との記事もあった。
 一茶は、年の瀬の人で賑わう「市」に出かけたのだろう。独り身で貧乏暮らしの一茶にとって、新年を迎えるための買い物は無縁かつ無理なこと。それでも人恋しさに出歩いたのだが、知人から何の用があるのかと問われ、いたたまれない気分になったのだろう。
 この数日、新型コロナウイルスの感染者が急増している。メディアの報道に世論も再び自粛ムードになってきた。買い物はネットで、宅配で済ませればいいと言うものの、なんだか味気ない。賑いを求めて出歩けば「何しに出た」と咎められそうな雰囲気でもある。まだまだ、ひたすら我慢をするしかないか。

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 立冬
2020.11.07
 

   行く秋や 二十日の水に 星の照り  斯波園女(しば そのめ)元禄頃1688〜

  東京で木枯らし一号が吹いたとTVニュースが伝えている。11月7日は二十四節気の「立冬(りっとう)」。いよいよ冬の訪れである。”いよいよ”と表現したのは、今年の冬は新型コロナウイルスに加えて例年のインフルエンザの流行が懸念されているから。その対策の為の予防ワクチンが高齢者を優先して無料で接種できるようになっている。予防ワクチンは少なくともこの4.5年は受けていなかったが、無料という言葉に促されて私もすでに接種を受けた。新型コロナウイルス対策の効果でもあるのだろうが、新型コロナウイルスによる死者数は過去のインフルエンザによる死者数よりも少ない。未だ収まらない新型ウイルスの感染者の数も例年のインフルエンザの感染者と比較すれば随分と少ないようだ。本来なら新型コロナウイルスよりもインフルエンザの方が脅威と思えるのだが、世の中は新型コロナウイルスの脅威の方により注目している。もっとも新型コロナウイルスは未知のウイルス。莫大な費用をかけてワクチンの開発を続けているが、まだ一般への接種には時間がかかりそうだ。この先もしばらく新型ウイルス騒動が終息しそうにない。大した予防策を講じていない私の身近に新型コロナウイルスの感染者がいないのはただただ幸運であっただけなのだろう。

  夜々(よるよる)の 雪を友也 菜雑炊(なぞうすい)  
小林一茶 享和頃1801〜
  
 日毎に夜の気温も下がっている。”毎夜一人雪を見ながら粗末な夕餉で暮らしている”と詠んだ一茶の心情がどのようなものであったのか私には分からないが、たとえ粗末な食事であっても暖かい部屋で静かに鍋を囲むことができる暮らしが続くなら不満はない。私は世の中の動きの傍観者でしかないが、経済活動は従前とまではいかなくとも徐々に動き出しているようだ。立冬を迎えたが、早く立春が訪れることを願っている。

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十三夜
2020.10.29
 

  もろこしに 不二あらば 後の月見せよ  
                   
山口素堂 元禄元年(1688)

 今年の10月29日は旧暦では9月13日。 この日は旧暦8月15日の中秋の名月に対して後(のち)の月「十三夜」の日。様々な多くの文化が唐土(もろこし・中国)から伝来したが、山口素堂は唐土には富士山も十三夜の月もめでる風習がないこと、この風習は日本独特のものであることを誇らしげに句に詠み込んでいる。多少、負け惜しみ、劣等感の裏返しのような感情にも見えなくもないが、素直に日本人の繊細でかつ素朴な風雅心を讃えている句と受け止めたい。
 十三夜の月を賞する風習は平安時代、宇多法皇の頃から始まったとされています。満月ではなく、少し劣った(欠けた)十三夜の月を名月としてめでるのは”判官贔屓”あるいは”わび・さび”にも通じる日本人ならではの心情からなのでしょうか。
 残念ながら風雅な心に縁遠い私にとっての十三夜の思いはちっと違う。♪・・・思いでにじむ法善寺、月も未練な十三夜♪。場所は法善寺横丁ではないが、ドブの臭いと安物の油で揚げた串カツの匂いが漂う十三(じゅうそう)の裏通り。半世紀も前、当時流行った藤島桓夫の歌を口ずさみながら大阪を離れた若き昔を思い出す。十三夜の月は未練な月です。
 
   きく月の 月見はもちの 月ならず まがきに花の さけや盃
                 
朱楽管江(あけらかんこう) 狂歌・徳和歌後万載集・天明5年(1785)

 きく月(九月)の月見はもちの月(もちづき・望月・満月)ではなく、もち(餅)を供えて食べる月でもない。垣根に菊の花よさけ(咲け・酒)よ。盃(さかづき・逆月)を酌み交わそう。・・・あざやかに”月”の言葉を重ね、もち、酒を詠み込んだ調子の良い狂歌ではあるが、酒飲みにとって「月」は酒の肴程度の扱いのようだ。 

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霜降
2020.10.23
 
 

 10月23日は二十四節気の一つ、霜降(そうこう)。霜は空気中の水蒸気が氷点下となった地表や車のフロントガラスなどの物に触れて結晶となったもの。この頃の都会ではあまり目にすることは出来ないが、畑や田圃が身近であった子供の頃は、学校へ通う道端の雑草が朝日に照らされて白く輝いて見えたのを思い出す。もっとも、それは11月の末から12月以降の頃のように記憶している。私が今住んでいる横浜では、冬の季節でも地表の温度が氷点下になることはあまりなく、霜を日常的に見られる環境ではないようだ。因みに霜は「霜がふる」のではなく「霜が降りる」と表現される。

  霜のたて 露のぬきこそ よわからし 山の錦の 織ればかつ散る
                           
古今和歌集巻第5
 霜の「たて糸」と露の「よこ糸」で紅葉が錦のように織られているが、糸の力が弱いので
 すぐに散ってしまう。


 紅葉の季節。散るのが早い桜の花よりも紅葉の方が長く見ることは出来そうだが、それでも見学に絶好の日和はそんなにはない。新型コロナウイルスの影響で遠出を控えていたが、そろそろ動き出そうかと迷っている。
 とはいえ、家の中に閉じこもっての生活も、長く続けると不満を通り越して、それはそれで馴染んでくる。快適とまではいかないが、じっくり腰を落ち着かせて、人生の終わりがいつ来てもよいようにあれこれ整理したりする日々も、それなりに充実感はある。

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寒露
2020.10.08
 

 寒露(かんろ)は二十四節気のうちの17番目。今年は10月8日から10月22日までがその期間。秋が深まり、穀物の収穫の時期でもあるようです。5年ほど前、ちょうどこの頃に旅行をして、早朝に宿を抜け出し、収穫直前の稲が実った田んぼ道を歩いたことを思い出す。たわわに実って首を垂れた稲穂が、露の重みで一層低くお辞儀をしていた。冷たい空気が甘く感じられた。
 2年ほど前から、毎日ではないが、朝5時頃にスタートして30分から1時間ほど近所を散歩している。9月の始め頃、晴れた日なら朝の5時でも明るさを感じたが、今は街路灯が明るく輝いて見える。空気も少し寒さを感じるほどになってきた。公園の草地を歩くと朝露の冷たさが靴を通して伝わってくる。一か月ほど前の「白露」の頃は、露の量も今よりは少なく、靴が濡れても冷たさを感じなかったと思う。気候変動の影響を危惧する声は日増しに強くなっているが、身近で季節の移り変わりを見つけると、なんだかホットした気分になる。

  今よりは また咲く花も なきものを いたくな置きそ 菊の上の露
                              
言中納言貞頼(新古今和歌集巻第5)
    いまからは もう他に咲く花もないのだから、露よ、菊の花の上に積もるのは止めてくれ。
    露は菊の花の色を衰えさせるのだから。


 寒露の季節が過ぎれば「霜降(そうこう)」の季節。野山の彩は花から紅葉へ移ってゆく。

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 中秋の名月(十五夜)
2020.10.01
 

 今年の10月1日は旧暦では8月15日。旧暦では7月から9月を秋とするので、秋の真ん中の月の8月15日の満月を中秋の名月(十五夜)として古くから月見をする習慣があります。但し、今年は旧暦8月15日の翌日が満月のようです。
 「月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」という和歌がありますが、毎月見られる満月の中でも中秋の満月が名月とされるのには理由があるようです。
 太陽は水平線を基準にして夏は高い位置に見え、冬は低い位置に見えます。逆に月は太陽とは反対に夏は低く、冬は高い位置に見えます。春と秋はその中間に見えて、月を見るにはちょうど良い高さにあります。しかし春は「春霞」といわれるように空気中の水蒸気の量が多く、また大陸から黄砂も飛来して遠くの景色がかすんで見えたりします。秋は「秋晴れ」と言われるように空気が澄んで月の姿をはっきりと見ることができます。月を見るには秋が良いとされるのはこの理由からと思われますが、「おぼろ月」と言われるように優しく見える春の月もそれはそれで風情もあるのではとも思います。

  常はさぬ 思わぬものを この月の 過ぎ隠らまく 惜しき夕(よい)かも
    
いつもは少しも思わないのに、この月が隠れて見えなくなるのが何とも惜しく思う夜だ(万葉集巻第七1069)

 月を題材にして詠まれた歌は古くから多くある。反対に太陽を詠んだ歌が少ないのは何故なのだろう。

  月見れば ちぢに物こそ かなしけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど  
大江千里(古今和歌集巻第四)
    月を見ているといろんなことを思い悲しくなる。私一人のためにある秋ではないのだが、思いはなんと多くあるのだろう。


  月見ても さらにかなしく なかりけり 世界の人の 秋とおもえば  
                              
つむりの光(狂歌集後万載・天明5年・1785) 
    月を見ても、悲しくも何とも思わない。世界中の人々がこの秋と巡り合って月を見ているのだと思えば。

 中秋の名月を眺めても、風流さを逆手に取る私のような天邪鬼はいつの世にもいるようだ。

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秋分・お彼岸
2020.09.22
 
 9月22日は二十四節気の一つ「秋分(しゅうぶん)」。この日は春分の日(3月20日)と同じく昼と夜の長さがほぼ同じになる。この日を境にして日の出が遅くなり、日の入りが早くなって昼間の時間が徐々に短くなっていき、12月21日の「冬至」には昼間の時間が最も短く夜の時間が最も長くなる。「冬至」から「春分」の日まではこの逆になる。
 秋分の日を真ん中にして前後の3日、計7日間を「彼岸(秋彼岸)」といい、これは雑節の一つでもある。仏教ではこの期間に先祖の墓参りをする習慣があります。この習慣は日本独特のもので、他の仏教国にはないようです。日本では”極楽浄土”は西方にあるとされ、太陽が真東から登り真西に沈むこの時期は浄土への道が開くという言い伝えが基になっているようです。また古来からの太陽信仰が仏教と結びついた習慣ともいわれています。
 お彼岸(秋彼岸)のお供え物として”おはぎ”は欠かせないもの。関西圏で生まれた私は子供の頃からちょっと前までこれを”ぼたもち”と言っていた。”おはぎ”は関東圏で使う言葉だと思っていた。近年になって(60歳を過ぎて)「春彼岸」では牡丹の花に由来して”ぼたもち”と言い、「秋彼岸」では萩の花に由来して”おはぎ”と言うのだと教えられ、ちょっと恥ずかしい思いをしたことがある。それ以来、”おはぎ””ぼたもち”を目にする都度、敵に出会った気分になる。
 ”暑さ寒さも彼岸まで”と言われている。事実此の頃になってようやく最高気温が30度を下回るようになった。本格的に秋の到来を感じる季節になってきた。近くの桜並木の葉っぱも色付き始めた。スーパーマーケットの食品売り場にも秋の味覚の数々が並んでいる。売り場に並んだ農産物を見る限り、今年もこれまでと同じように季節の食べ物は不足なく収穫されているように感じる。とはいえ、ちょっと心配な噂がちらほら聞こえてくる。噂だから真実ではないかもしれないが、新型コロナウイルスの影響による農産物生産の停滞、、世界的な異常気象、風水害の影響による農産物の被害、更にアフリカ、インド、中国などのバッタの食害による穀物の収穫減等、世界的な食糧不足が懸念される。日本の食料自給率はカロリーベースで約40%、生産額ベースで約60%という。どちらにしても輸入に頼らなければ日本人の胃袋を満たせない状況にある。例によって中国は世界中から農産物を買いあさり、食料の備蓄を増加させているといった話も聞こえてくる。ちょっと心配だ。

  富貴とは これを菜漬(なづけ・名付)に 米のめし 酒もことたる 小樽(こたる)ひと樽  
                       
秩東作(へづつ とうさく) 万載狂歌集(明暦3年・1783)

 食糧不足を鑑みて、贅沢をするつもりはないが、せめて”菜漬に米の飯、酒も小さな一樽あればよい(これを富貴という)”程度の生活ができるように願いたい。

  世の中は いつも月夜に 米のめし さてまた申し 金のほしさよ  
                             
四方赤良(よもの あから) 万載狂歌集  
 贅沢をしないと言いながら、ついつい欲が出る。

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白露
2020.09.07
 

  秋はただ 物をこそ思へ 露かかる 萩の上吹く 風につけても 
                           
源重之女(みなもとのしげゆきのむすめ)新古今和歌集

 9月7日は二十四節気の「白露(はくろ)」。この頃になると夜の大気が冷えて、大気中の水蒸気が水滴(露)となって草木の表面に着く。秋の到来を実感する頃だが、今年は少々様子が違う。今もなお熱帯夜は続き、昼間の気温も30度を下回らない。秋は何処で留まっているのか、姿が見えない。保存したデジタル写真のファイルからこの頃に写した風景を探すと、秋らしい景色に出会うことができる。私の狭い範囲の記録だけで今年が異常な年だと結論付けることは無理があるが、今が、ひたすらに物思いにふける秋の気分になれないことだけは確かだ。

  白露(しらつゆ)や いばらの刺(はり)に ひとつづつ 
与謝蕪村

 朝露に濡れた庭の隅に、すっかり葉を落した茨(いばら)が残っている。刺々しい茨の棘(とげ)のそれぞれに白露の玉が光って美しい。実際に、このようね情景に私は出会ったことがないが、眼を閉じれば、少しは秋の風情を思い起こすことができる。もっとも蕪村が優しいイメージの白露と刺々しいイメージの棘の組み合わせを詠み込んだのは、他に意図することがあったのだろうか。 

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二百十日
2020.08.31
 

 立春から数えて210日目、今年の8月31日は雑節の一つ「二百十日(にひゃくとおか)」。平年であれば「防災の日」でもある9月1日が二百十日となるが、今年はうるう年。この日前後には台風が襲来することが多いと言われていますが、私が住んでいる関東地方ではまだ台風の恐怖を感じない。統計的には8月下旬から9月中旬の間は台風の襲来は少ないようです。とはいえ、この雑文を書いている8月26日、強い勢力の台風8号が沖縄近海を北上して黄海に進み、朝鮮半島に上陸する気配。幸いに日本には直接的な影響はないが、少しコースを外れればかなりの被害も予想された。やはり昔からの言い伝えを一様には無視できないようだ。
 台風の襲来が何日も前から予報される現代と違って近代的な気象予報が無かった時代、突然襲ってくる台風(大風)は恐怖でしかなかったと思われます。特に農業に従事する人にとっては作物の収穫に直接影響があり、このため二百十日前後には台風(大風)を鎮めるための行事が各地で行われていたようです。また、夏から秋に向かうこの頃は天地の気配も一変する時期。ちょっとした変化に”何かが起こるのでは”と人の心も疑心暗鬼に陥りやすく、天変地異の噂が広がる時期でもあるようです。

  秋たつや 何におどろく 陰陽師  
与謝蕪村

 江戸時代、官職としての陰陽師(おんみょうじ)はすたれたが、逆に民間では祈祷や易断の担い手として活躍していたようです。もっとも自称陰陽師も横行して胡散臭いイメージでもあったようだ。与謝蕪村はそんな陰陽師が一心に何かを占っている姿を見ていたのだろうか。突然何かを予感したのか驚くような表情をして空を見つめる。胡散臭い思いを抱きながらも、それを眺める人々の表情も一瞬強張る。そんな光景が浮かんでくる。
 今、この時勢、世界中が不安に包まれているように感じる。コロナウイルス騒動には終息の気配がない。国内ばかりでなく世界中の政情が不安定化している。地震や風水害、天変地異が今にも起こりうるとの噂。メディアの報道もそれを期待しているかのように煽る。いや、江戸時代の陰陽師の役割を現代のメディアが受け継いでいるのではと勘繰りたくもなる。そう感じるのは私自身が過剰に不安にとりつかれている所為なのだろうか。それとも私がメディアの報道以上に不安がより拡大し、現実となることを期待しているからなのだろうか。(掲載した与謝蕪村の句は「二百十日」ではなく「立秋」に詠んだ
句です)

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処暑
2020.08.23
 

 8月23日は処暑(しょしょ)。処暑は二十四節気の一つで、暑さが和らぐ頃。とはいえ、今年の残暑は厳しい。立秋を過ぎてから41度の気温を記録した地域もある。しかもこの暑さは8月中、いやそれ以上も続く勢いだ。
 新型コロナウイルスの騒動に隠れてこれまであまり報道されなかった熱中症も、このところ大きく報じられるようになった。直近の日々の統計だけであれば、熱中症による死者の数が新型コロナウイルスによる死者の数を上回っている。例年であれば昼間の時間帯に冷房のスイッチを入れることはあまりなかった私も、さすがに今年は連日冷房の効いた部屋で過ごしている。それでも日が落ちる頃には秋を感じさせる風が吹くこともある。昼間の異常な暑さがそう感じさせるのかもしれないが、そんな時は、一瞬だが、自分を取り戻した気分になる。
 それにしても新型コロナウイルスの終息する気配が見えない。おまけに国内外の政治的・経済的動きも激しさが増してきた。浮世の事には無関心で余生を送ろうと考えていたがーもっとも浮世と縁を切って優雅に暮らせる身分ではないがー雑念が消え去ることがない。余計に暑さが増すばかりの処暑の到来だ。どこかへ逃げだそうにも、行く場所もない。

  世を捨てて 山に入る人 山にても なほ憂きときは いづちゆくらむ  
凡河内躬恒 古今和歌集巻第18

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立秋
2020.08.07
 
 
 関東地方は8月1日に梅雨が明けたと、気象庁の発表があった。鬱陶しい日々が続いていたので漸く夏の太陽が戻ってきたと喜んでみたものの8月7日は立秋(りっしゅう)。暦の上ではもうすぐ秋が始まる。立秋は二十四節気の一つ。7月22日の大暑から数えて16日目。次の二十四節気の処暑(しょしょ 8月23日)までの期間が立秋。因みに梅雨明けが立秋の始まりまでになかった場合は、気象庁の梅雨明け宣言は出されないという。今年は例年よりは遅れたがどうにか間に合った。遅れても自然は季節の移り変わりを忘れてはいなかったようだ。
 立秋が到来しても暑さが続くのは例年のこと。言葉の上では立秋までの暑さを「暑中」。立秋からの暑さを「残暑」という。今年は「暑中」を感じる日が少なかったが、その分「残暑」が厳しくなるのだろうか。とはいえ「暑中」と「残暑」は言葉の違いだけではない暑さを感じる。「暑中」は湿度の高いムシムシした暑さを思うが、「残暑」は日影にいれば乾いた風に吹かれてどことなく秋の気配も感じられる。これからは空調機に頼ることなく昼寝を楽しむことができそうだ。そういえば、今年は熱中症の騒ぎを聞かない。新型コロナウイルスの陰に隠れて報道がされないだけなのだろうか。

 ベランダに鉢植えの朝顔の花が咲いた。梅雨が明けて太陽の光に目覚めたのか一気に咲きだした。

  知らず心 たれをかうらむ 朝がほは ただ瑠璃紺の うるほへる露
       
四方赤良(よものあから) 万載狂歌集(天明3年・1783頃)

 朝顔の季語は秋。万葉集に収録されている山上憶良の歌(巻第8・1538)には秋の七草の一つとして「朝顔」が数えられている。私にとっての朝顔の花は太陽の強い陽射しを受けて元気に咲き誇るイメージなのだが、四方赤良は朝顔の花に愁いを帯びた女性の心を感じたようだ。
 この時代の人にとって朝顔が咲く季節は夏の終わりで、そろそろもの悲しくなる秋の気配を感じる頃なのだろうか。江戸時代に開かれた朝顔市は七夕の前後に開かれていたそうだが、それが旧暦であるなら立秋のころでもある。夏の宴から取り残されて、それでもけなげに咲く朝顔。そんな思いで朝顔の花を眺めてみると、表の華やかな装いに隠れ、心の奥に秘めた強い意志が感じられる。これは男にとって少々辛い。 

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 大暑
2020.07.22
 

 7月22日は二十四節気の大暑(たいしょ)。本格的な暑さの到来だが、この文章を書いている7月19日の朝、横浜での最低気温は21度。生憎の梅雨模様。午後からは晴れ間も出て気温も上がりそうだが、その後はまだしばらく梅雨空が続く予報だ。太陽がぎらぎらと輝く夏はいったいどこに行ってしまったのか。とはいっても梅雨明けが例年に比べてそれほど遅いわけでもないようだ。気象庁発表のデータでは去年は7月24日頃(関東甲信)、平年は7月21日頃(関東甲信)である。

  山里に ひとりながめて 思ふかな 世に住む人の 心強さを
                            
前大僧正慈円 (新古今和歌集)
         山里に一人こもってしみじみ思う。辛い世に、それを厭わず耐えて住んでいる人の心の強さを。


 隠遁生活というほどの大袈裟なことではないが、梅雨空が続いて、おまけに新型コロナウイルスの影響もあり、このところ外出の機会が少なくなり自宅に籠っての生活が続く。気晴らしは、せいぜいカミさんに付き合って近所に買い物に出かける程度だ。それでも世の中の動きは少し変わってきた。コロナウイルスの影響はまだまだ続く気配だが、経済活動は徐々に再開されている。人と交わる機会が増えればウイルスに感染するリスクも増える。しかし誰かが動かなければ社会生活が成り立たない。自粛生活から抜け出せないと不満を言いつつ、私のように傍観者でいられる人は幸せなのだろう。リスクを負いながらも世の中の最前線で活動している人には感謝しかない。私は何もできず隠遁生活の真似事をしているだけだ。
 
  隠遁も 浮世不首尾の 悪仕舞  
流枝 川柳・元禄6年(1693)ころ
 

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土用 土用の丑
2020.07.19
 

 土用(どよう)は雑節の一つで、万物は火・水・木・金・土の五元素からなるという古代中国を発祥とする自然哲学の思想、五行説(ごぎょうせつ)に由来する言葉。四立(立春・立夏・立秋・立冬)の各々前18日間を土用とするが、一般的には土用といえば立秋の前の「夏の土用」を指すことが多い。土用餅、土用干し、土用の丑、土用波などはすべて夏の土用の風物詩・行事。今年の夏の土用の始まり(土用入り)は7月19日。土用の終わり(土用明け)は8月6日で、翌日の8月7日は立秋となる。
 何はともあれ、土用といえば「土用の丑の日」。今年は7月21日と8月2日の二日ある。夏痩せ防止、暑気払いに「鰻」を食べる風習は古来からあったようだ。
 
  石麻呂に 我(われ)物申す 夏痩せに 良しといふものそ 鰻(うなぎ)捕り喫(め)せ
                                     
万葉集巻第16(3853)
      私は石麻呂さんに申し上げる。夏痩せには良いといわれている、鰻を捕って食べることを勧める。


  痩(や)す痩(や)すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻を捕ると 川に流るな
                                     
万葉集巻第16(3854)
      痩せていても生きていればいい。万が一にも、鰻を捕ろうとして川に流されることがないように。


 上記二首は万葉集に収録された大伴家持(生年718年頃〜没年785)が作った歌。石麻呂という名の人の素性は分からないが、生まれつき痩せた老人であったようで大伴家持がそれをからかって詠んだ歌という。とはいえ、家持にとって石麻呂は親しい人物であったのだろう。歌は悪意ではなく、鰻を食べて養生しろと言っているのだろう。この時代の人は鰻をどの様に調理して食べていたのだろうか。


 鰻はどのようにして食べるのが美味いのか。白焼にしろ蒲焼にしろ、私は焼いて調理された鰻しか食べたことはないが、世の中には鍋料理として食べている人もいるのかもしれない。
 土用の丑の日に鰻の蒲焼を食べる風習を広めたのは江戸時代の蘭学者・平賀源内(1728〜1780)という話は有名。その真否はともかく、この時代、鰻の蒲焼は比較的容易く食べられていた料理であったようだ。

  あなうなぎ いづくの山の いもとせを さかれてのちに 身をこがすとは
                       
四方赤良(万載狂歌集・天明3年1783)
           どこの山の芋が成った鰻かわ知らないが、いも(妹)せ(背・夫)の仲を裂かれて
           蒲焼になりながらも相手のことを思いこがれるとは、なんと不憫なことよ。

 
 四方赤良(よものあから)の狂歌。この歌には「山の芋鰻になる」という諺、「背開き」という調理方法、「蒲焼の香ばしい匂い」が詠み込まれている。「山の芋鰻になる」の諺は、山の芋は鰻のように細くて黒いが鰻になることはない。そんな突拍子もないことが起こるわけがないといった意味の諺。歌では「いも(芋)」を「妹(いも)」に掛けている。鰻を割くとき、関東では背開き、関西では腹開とする。武家社会の関東では切腹のイメージを嫌ったから腹開きでなく背開きとする、そんな説があるようですが、これは蒲焼の仕方の違いによるもの。関東では鰻を焼く前に蒸し焼きにして余分な油を抜く。焼くときにやわらかい腹ではなく、身の厚い背の部分に串を刺さないと身が崩れてしまうという理由からだそうです。歌では「せ(背)」を「背開き」と同時に「夫(せ)」にも掛けいる。「蒲焼の香ばしい匂い」を嫌う人は稀ではないか。この匂いにつられて財布の中身を心配しながらも店の暖簾をくぐる。
 もう二十年以上も前のことだが、地方都市のうなぎ屋で「うな丼」と「とろろ蕎麦」のセットを食べたことがある。山の芋と鰻は、どちらも私の好物。二人前の量だが難なく平らげた。今年の丑の日にカミさんは鰻の蒲焼を予約したが、二人で一人前の鰻。年金暮らしで金がないのは事実だが、それ以上に食が細っている。私は二年前に胃の三分の二を除去したので昔のように大食いが出来ない。昔は二段に盛られたうな重を食べたのだがと、そんなことを思い出しながらゆっくりと味わうことにする。

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七夕
2020.07.07
 
 七夕(たなばた)は旧暦の7月7日に行われた五節句の一つ。現在は旧暦ではなく新暦で七夕行事を行うことが多い。因みに旧暦の7月7日は今年は8月25日となる。
 七夕の起源は中国・漢の時代の風習が日本に伝来し、これに日本古来からあった「棚機津女(たなばたつめ)」伝説と結びついて根付いたものとされる。子供の頃から親しんだ童話による七夕の物語のあらすじは「天帝の娘の一人・織女(おりひめ)は神様の着物を織ることを仕事としていた。熱心に仕事をこなす織女が年ごろとなり、天帝は織女に婿を迎えることを思いつき、天の川の対岸で牛を飼っていた働き者の彦星(牽牛)を織女に引き合わせる。二人は結婚して仲良く暮らすことになったが、仕事を忘れて遊んでばかりいるようにった。これに怒った天帝が二人を引き離し、一年に一度だけ、七夕の日に逢うことを許す」というもの。
  織女はこと座の一等星「ベガ」、彦星(牽牛)は天の川の対岸(東側)にあるわし座の一等星「アルタイル」になぞられている。月齢(月の満ち欠け)の関係で星を観察するには新暦よりも旧暦の方が適している場合が多い。また新暦の7月7日はまだ梅雨明けが終わっていないことも多い。今年の新暦7月7日はほぼ満月。旧暦7月7日は月齢6の上弦の月。旧暦の方が月の光の影響が少なく観察しやすいが、都会ではそもそも天の川を見ることが難しい。
   ひさかたの 天の河原に 上(うえ)つ瀬に 玉橋渡し
   下(しも)つ瀬に 舟浮けすゑ
   雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 
   裳(も)濡らさず 止(や)まず来ませと 玉橋渡す
 万葉集には七夕にまつわる歌が数多く収録されている。上記の歌は巻第九に収録されたものだが巻第十の「七夕」の題には98首もの歌が収録されている。
   天の川 瀬を速みかも ぬばたまの 夜はふけにつつ 逢はぬ彦星
   
天の川の流れが速いので手間取っているのだろうか。
    夜は更けているのに織女星のもとに容易くいくことができないでいる彦星であるこ
    とだ(万葉集2076)


     天の川 棚橋(たなはし)渡せ 織女(たなばた)の い渡らせむに 棚橋渡せ 
       
天の川に棚橋を渡せ、織女が渡られるように 棚橋を渡せ(万葉集2081)

 上記二首はいずれも万葉集巻十に収録された歌。上段の歌は彦星が天の川を渡ってが織女に逢いに行く、下段の歌は逆に織女の方から彦星に逢いに行くことを前提とした歌。中国の七夕物語では織女が彦星に逢いに行くこことになっているようだが、万葉集に収録された歌では織女の方から彦星に逢いに行く歌は稀で、ほとんどはその逆になっている。どうでもいいことだが、当時の宮廷人の「通い婚」の風習が影響しているようだ。

   箱入りの おり姫なれど このゆふべ 天の川原へ 下りそうめん 
                             
智恵内子((狂歌集万載天明3年1783ころ)

 江戸時代の狂歌。作者・智恵内子(ちえのないし)は元木網(もとのもくあみ、京橋で湯屋業を営む大野屋喜三郎)の妻女。七夕の日に素麺を食べる風習があったようだ。「めったに外に出られない織姫もこの夕べだけは天の川原に下りて彦星に逢うことだ。めったに食べられない箱入りの上方下りの素麺をいただこう」
 素麺を食べる風習があることを知らなかった。七夕の日、私も箱入りではないがが袋入りの素麺を食べることにする。

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小暑
2020.07.07
 
 
 夏至(平成2年6月21日)から16日目、小暑(しょうしょ)は梅雨明けが近づき本格的な夏の到来を告げる二十四節気の一つ。次の大暑(7月22日〜8月7日)までが暑中となる。小暑の終わりごろには五行説に基づく夏の「土用」(7月19日)がある。「土用の丑の日」は7月21日。また小暑の始めの頃に各地で朝顔市が開かれるが、全国的にも有名な入谷鬼子母神の朝顔市は今年は新型コロナウイルス(武漢ウィルス)の影響で開催されないようだ。
  冬は いみじく寒き  夏は 世に知らず暑き

 清少納言「枕草子」にある言葉。「冬はひどく寒いのがいい。夏は世に類ないほどに暑いのがいい」と言う。しかし私には賛同しかねる言葉だ。若いうちならともかく、老人には厳しい。四季の変化を楽しむのは生きている証でもあるが、ほどほどの変化を望みたい。
 とはいえ、何事も中庸が善、浮世の動きからは距離を保って余生を送るつもりでいたが、世の中の動きが慌ただしい。今年の夏は熱くなりそうだ。この雑文を書いている7月1日、中国政府によって「香港国家安全維持法」が制定され一国二制度を統治の前提としていた香港に適用されることになった。法律の中身はメディアによる報道以外に知ることは出来ないが、香港の高度な自治が形骸化したことは疑いないことだ。
 世界を二分する新しい冷戦がすでに始まっていると言われていたが、これによってもはや冷戦は後戻りできないステージに入ったと思う。香港の地位は象徴的な面だけでなく、世界経済にとって実質的に重要な位置にあったと思う。もともと民主、人権を標榜する自由主義陣営と一党独裁政権が率いる陣営が経済の面で共存することなどありえないと思っていたが、これまで矛盾を抱えつつ共存していた二つの陣営の接点は、ほころびを繕うことが不可能なほど切り裂かれていくように感じる。既にこの法律により逮捕者が出たという報道もある。この先どのように進むのか私に予測できる術もないが、結果として、人類の普遍的な価値が損なわれない世の中になることを願う。 

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半夏生
2020.07.01
 

 半夏生(はんげしょう)は日本の季節を表す暦言葉・雑節の一つで、同時に中国が発祥の七十二候の一つでもある。半夏生は根茎が「半夏(はんげ)」と呼ばれる薬草となるサトイモ科の烏柄杓(からすひしゃく)が生い茂る季節から名付けられたとされる。また、この時期にはドクダミ科の「ハンゲショウ」が花を咲かせる季節でもある。「ハンゲショウ」は葉の色が一部を残して白く変化する。このことから「ハンゲショウ」は「片白草(かたしろくさ)」とも呼ばれ、さらに半分お化粧をしたような姿に見られることから「半化粧」→「半夏生」とされ、雑節「半夏生」の名前の由来は「ハンゲショウ」とする説もあるようです。掲載した写真は「ハンゲショウ」です。
 古くから使われる「半夏生」の暦言葉だが私はちょっと前まで知らなかった。子供の頃からの記憶をたどっても「半夏生」にまつわる思い出はない。が、少し調べてみると日本各地には様々な風習、習慣があるようです。「半夏生」の文字を初めて目にしたとき、ロマンチックなイメージを持ったが実際はそうではなかった
 農家にとってはこの日までに田植えを済ませる目安であり、無事に田植えが終わったことを田の神様に感謝する日でもあるようです。関西地方には稲の苗がタコの足のようにしっかりと大地に根付くようにとタコを食べる習慣が、また小麦で作った餅を神様にお供えし、黄粉を混ぜて食べるといったこともあるそうです。その他に日本各地では芋汁を食べたり焼サバを食べたりといろいろの習わしがあるようです。また、田植えで疲れた体を休ませる意図で「妖怪が出る」などとの言い伝えで半夏生から五日間ほど農作業を禁止する習慣もある。


 半夏生の時期はちょうど梅雨の半ば。去年の今頃の天気がどんな様子だったか既に忘れてしまったが、今年の梅雨は結構雨の日が多いように思う。昨日まで降っていた雨は今日は止んでいるが、それでも何時降り出すかと気をもむ曇り空である。湿度が高く蒸し暑さを感じる。

  大の字に 寝て涼しさよ 淋(さび)しさよ 
              
小林一茶 七番日記(文化7年・1810ころ)

 一茶がどんな気持ちで詠んだ句かわかりませんが、蒸し暑い夏の昼下がり、畳の上に大の字になって寝そべる。縁側から湿気を含んだ風が入り込んできて、半ば裸の身体にやさしく触れて通り過ぎていく。ひんやりとした空気が、独り身の気軽さと寂しさを同時に心の奥に運んできたようだ。
 私の今の住まいに畳部屋はない。代わりに板張りの床に寝そべってみる。手足を延ばして大きく息を吸い込む。板張りの床に肌が触れて、冷たさが心地いい。子供の頃、畳に寝そべって昼寝をしたことを思い出す。その家は今はない。独り身ではないがちょっと寂しい気分だ。
 それにしても世の中の動きが慌ただしくなってきた。呑気に大の字になって寝られる日々がこの先も続くのだろうか。

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大祓(夏越の祓)
2020.06.30
 

 大祓(おおはらえ・おおはらい)は毎年6月と12月の晦日に行われる神事。罪や心身の穢れを祓い清めることが目的。疫病が流行しやすい夏場に行われる6月の夏越の祓(なごしのはらい)は病魔に負けない力を授かるともいわれています。茅や藁を束ねて作られた茅の輪(ちのわ)が神前に設けられ、これを三回くぐる。また人形(ひとがた)の白い紙で身体を拭い、身に着いた半年間の穢れを祓い無病息災を祈る。
 日頃は信仰心のない私も、新型コロナウイルス撃退を願って参拝しようと思っていたが、ここでもウイルス感染を避けるために今年は多くの神社で一般人の参拝ができない状況のようです。



  たくはへも みな月はてて 一文も けふはなごしの はらへだにせず
             
朱楽管江(狂歌集・若葉 天明3年1783ころ)
  今日は水無月(みなづき・6月)の晦日。貯えていた金も掛け取りが来て一文も残って
  いない。夏越の祓(払い=神事の初穂料?)さえできないでいる。


 狂歌の作者、朱楽管江(あけら かんこう)は本名を山崎景貫(かげつら)といい、幕府御先手組の与力。唐衣橘洲(からころも きっしゅう)、四方赤良(よもの あから)とともに江戸時代・天明期の狂歌三大家の一人。
 江戸時代の商習慣に詳しくはないが、朱楽管江は、おそらく半年毎の掛け払いで購入した生活用品の払いに追われていたのだろう。もっとも御先手組の与力であれば200石取の旗本。これほどまでに生活費に窮していたとは思えない。しかし下級武士や一般町民にとって6月の晦日は夏越の祓いではなく「払い」が切実な問題。現代においても今年は新型コロナウイルスの影響で営業自粛を強いられた中小事業者は資金繰りで困窮している。夏越の祓で罪や穢れと共に全てがリセットされるなら、・・・神頼みでは出来ない相談か。

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夏至
2020.06.21
 

  夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月やどるらむ
                            
深養父(古今和歌集)

 夏至(げし)は一年のうちでもっとも昼の時間が長く、もっとも夜の時間が短い。まだ宵のうちだと思っていたのに、いつの間にか空が明るくなってきた。月も沈むのが遅れてしまったようで、どの雲に宿を借りて隠れているのだろうか。

  さかづきを 月よりさきに かたぶけて まだ酔ひ(宵)ながら あくる一樽
             
山手白人(狂歌集・万載・天明3年1783ころ)
  夏至の日の出は午前4時半ごろ(横浜)、日の入りは午後7時ごろ(横浜)。午後七時半になってもまだ明るさが残っている。暗くなるのを待てなくて酒を飲みだしたのだが、宵の口にすでに一樽を飲み干し、酒がつきてしまった。
 サラリーマンだったころ、まだ明るいうちに職場を離れることに罪悪感を感じていた時期がある。大した用もないのに職場に残り、残業をする振りをする。今の時代ならこっちの方にこそ罪悪感を感じるべきだが、団塊世代の性なのか、互いに他人を意識して帰社時間が遅くなる。
 コロナウイルスの影響で在宅勤務が広まったっが、今のサラリーマンは優秀なのだろう。私ならとても時間管理ができそうにない。通勤時間が節約できて生活に余裕ができたとの声もあるようだが、私にとって通勤時間は仕事のオン、オフのスイッチの役割だった。長距離通勤であったが、星を見ながら家を出て、星を見ながら帰宅した日々が懐かしい。

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入梅
2020.06.10
 

 6月10日は入梅(にゅうばい)。私が住んでいる横浜地方はまだ梅雨入りしてはいないが、沖縄、九州南部と四国地方は既に梅雨入りしているようだ(6月10日に中国、近畿、東海地方が梅雨入り)。サラリーマン生活を送っていた時代は、この時期、通勤や仕事で外出するのに鬱陶しい気分になったが、今は自然を観察する余裕もでき、しっとりと降る五月雨に風情を感じるようにもなった。とはいえ昨今はしとしと降る五月雨のイメージとはかけ離れた集中豪雨のような降り方をすることもしばしばある。日本は、まだまだ新種のコロナウイルスの脅威から抜け出していない状況であり、これに大雨による被害が加わることがないようにと祈るばかりだ。 

  五月雨の 雲の絶え間を ながめつつ 窓より西に月を待つかな 
                     
荒木田氏良(新古今和歌集)

 普通なら月は東から出るものだが、歌の作者は何か心に思い詰めていたことでもあったのだろうか。長い時間、物思いにふけながら夜空を眺め、月が西に傾くころにようやく五月雨が小止みになり、雲の切れ間から月が現れるのを待っている。
 作者は月を見たかったのではないと思う。静かに降る五月雨に心を落ち着かせて思いをめぐらす。その行為そのものが大切だったのだろう。西に月が現れれるころには、思いつめた何かを吹っ切ることができる。そんな気持ちを歌に託したのでは。
 夜の時間がだんだん短くなってきている。あと10日もすれば夏至(6月21日)。一年のうちで昼の時間が最も長く、従って夜が最も短い。思うことがあって寝られない夜も、悶々と過ごす間もなく夜が明ける。寝られないことを苦痛に思わず、東の空を眺めてだんだんと明るくなってくる朝の空気を感じるのも楽しい季節だ。もっともこんな気持ちになれるのも明日の仕事を持たない老人の気紛れ心だからなのだろう。
 入梅と言えば梅の実が出回るころ。カミさんが梅の実を買ってきた。今年は梅酒ではなく梅シロップを造るという。私が酔っぱらうのを避ける気持ちなのだろうが、出来上がった梅シロップにジンでも混ぜて飲めば、それはそれで楽しみでもある

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芒種
2020.06.05
 

 芒種(ぼうしゅ)は二十四節気の一つ。立春から数えて9番目の節気で今年は6月5日。芒(のぎ)とは穀物の種子の先端にある髭のような突起のことで、芒種は芒(のぎ)のある稲や麦の種子を蒔く季節のこと。ただし二十四節気の発祥の地である中国の中原地方と違って、日本ではこれよりも早く稲の種蒔が行われている。芒種は、近頃では物事を始めるのに良い日という意味でも使われているようです。
 
  おもしろい 夜(よ)は昔也 更衣(ころもがえ) 
小林一茶
          
 コロナウイルスの脅威は完全には消え去ってはいないが、ウイルスに伴う緊急事態宣言は日本全土で解除された。これまで外出を控えていたこともあり、衣替えの季節になっても冬服と夏服の入れ替えをしていなかった。当座の必要なものだけを取り出して身に纏っていたが、少し遠出をしてみたい気分になって全ての夏の衣服を取り出した。捨てるに惜しい思いで仕舞い込んでいた数十年前に購入した上着も出てきた。 

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 小満
2020.05.20
 

 5月20日は二十四節気の「小満(しょうまん)」。小満とは”小さな満足”の意味なのだろうか。「立春」とか「立夏」とかに比べれば馴染みの薄い暦言葉。常日ごろ、こうした暦言葉に接している人でなければ「小満」の意味をすぐさま思い起こすことができる人は多くはいないのでは。
 小満の季節は草木が茂り、秋蒔きの麦に穂がつくころ。気が付けば、私の住む近辺の街路樹も青葉に覆われている。農業を営む人にとっては、厳しい冬を乗り越えた作物の成長する姿を見る喜びが「小満」の言葉に込められているようだ。もっとも今年は例年とは違う。コロナウイルスの影響が農業にも及んでいるのだろうか。いつも通りの「小満」が今年も訪れていることを祈る。
 コロナウイルス対策の緊急事態宣言が大部分の地域で解除されたが、残念ながら私が住む地域では引続き宣言が出されたままだ。それでも、かすかに出口が見えてきたように感じる。 


   遅れても 咲くべき花は 咲きにけり 身を限りとも 思ひけるかな
                      
藤原為時(後拾遺和歌集)

 藤原為時は源氏物語を書いた紫式部の父。為時が越前守に任ぜられとき、子供であった紫式部も父に同行して越前に赴いている。歌は、為時が自分の立身出世がここまでと、不遇時代の思いを述懐して詠んだものと思われるが”遅くなっても咲く花は必ず咲く”と、前の句を積極的な意味で解釈したい。
 コロナウイルスはいずれは終息するだろう。それが半年、一年先であっても。とはいえ、終息後の世界はむしろ現状よりも厳しいことが予想される。年老いた私には半ば無縁の事ではあるが、長い人生の中で一年二年などものの数ではない。少々こじつけではあるが”遅れても咲くべき花は必ず咲く”。これから予想される厳しい経済状況、世界情勢の中であっても美しい花が数多く咲くことを夢見る。

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 母の日
2020.05.10
 
 
 この歳になっても、思い浮かべるおふくろの顔は私が子供の時のものだ。生まれ育った町の風景と一緒に甦って来る。

   愁いつつ 岡にのぼれば 花いばら  
与謝蕪村

 日本では5月の第2日曜日を母の日とするが、これは万国共通ではなく、また母の日の歴史もそれぞれ異なっているようだ。大正時代の始めにキリスト教の教会で行われた「母の日礼拝」が日本での母の日の起源とされるが、広く定着したのは戦後のことのようだ。母の日にはカーネーションを贈るのが一般的な風習。母親が健在であれば赤色の、亡くなっていれば白のカーネーションを贈る。
 戦後すぐに生まれた私の子供のころの記憶に、母の日はない。当時、世間一般に母の日が認知されていたかどうかわからないが、仮に広まっていたとしても小さな商店を営んでいた両親の忙しい日常と厳しい経済環境の中で、母の日を意識する余裕はなかったと思う。もっとも、私が大人になり多少の余裕ができたときでも、私は母の日を祝うこともプレゼントを渡すことも一度もしたことがない。親不孝者の私と違って、私の子供たちは子供のころから自分の母親に何がしかのプレゼントを用意していた。今年は、外出自粛が続く中で手渡しでなく宅配便で送ったと、カミさんには連絡があったようだ。

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立夏・端午の節句
2020.05.05
 

 今年の5月5日は二十四節気の立夏(りっか)。立夏は夏の始まり。また5月5日は五節句のうちの端午の節句の日でもある。端午の節句は旧暦で祝う風習もあるようですが、今年はうるう年、4月に閏月が入るので旧暦の5月5日は新暦では6月25日となる。

     目には青葉 山ほととぎす はつ松魚(かつお)  
山口素堂
 
 誰でも一度ならず何度も聞いたり目にしたことのある有名な句。詠まれたのは江戸時代の延宝(1673〜)の頃。場所は鎌倉だそうです。「青葉」「ほととぎす」「松魚(かつお)」と初夏を代表する名詞を並べただけの句のようですが、簡潔に季節を表す歯切れのよい表現が江戸の人にもてはやされた。
 当時の鎌倉では「鰹」は名物とされていた。また初鰹は江戸っ子には欠かせない人気の食材。獲れたての鰹を鎌倉や小田原から馬や早船で早朝に江戸に運ばれてその日のうちに食された。それだけに庶民には手が届かないほどの高値で取引されたこともあるようです。「目と耳はいいが口には銭がいる」江戸時代に詠まれた川柳には鰹の値段の高さを恨む句も多くある。
 それにしても、いつの間にか夏が訪れている。


 いたずらに 過ぐる月日は おもほえで 花見て暮らす 春ぞすくなき
                       
藤原興風(古今和歌集)
     何もしないで暮らしている月日は長いとも短いとも思わないが、
     花を見て暮らす楽しい日は本当に少ない。


 いたづらに 過ぐる月日も おもしろし 花見てばかり くらされぬ世は
                       
四方赤良(狂歌集・万載)
     なにもしないで過ぎてゆく日も 本当は面白いのではないか。
     今は花を見てばかりでは暮らしてゆけない世の中なのだから。


 今年の1月下旬から今日まで、私は何をしていたのだろう。久しぶりに近くの公園に行った。季節は確実に移り変わっている。子リスがツツジの植え込みから現れて人間界の様子を探っている。  

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八十八夜
2020.05.01
 

 立春から数えて八十八日目、うるう年である今年の八十八夜は5月1日。二十四節気は中国の中原地域が発祥ですが、八十八夜は日本の気候風土に合わせて作られた季節の変わり目を示す暦用語。二十四節気に対して雑節と呼ばれている。雑節にはこの他に「土用」「節分」「彼岸」「入梅」「半夏生」「二百十日」などがあります。
 八十八夜と聞いて、すぐさま浮かんでくるのは♪夏も近ずく・・・で始まる茶摘み歌。この時期に一番茶の茶摘みが行われるようです。また八十八を重ねれば「米」という字にもなり、稲の種蒔の時期でもあるようです。

    山門を 出れば日本ぞ 茶摘み歌

 
 この句が八十八夜に詠まれたのかどうかは分かりませんが、詠まれた場所は宇治の黄檗山萬福寺。詠んだのは江戸時代の人、田上菊舎(たがみきくしゃ)。萬福寺は江戸時代の寛文1年(1661)に明(中国)から招聘された隠元禅師によって創建されたお寺。寺院の建物は明朝時代の様式で建てられていて、異国にいる思いがしたのでしょう。山門を出ると目の前に茶畑が広がっており茶摘みの歌が聞こえてくる。田上菊舎は異国の雰囲気に少々緊張したのか、山門を出て長閑な日本の風景を眺めてホットしたのだろうか。それとも「山門」が異なる文化を仕切るドアのように感じて、その対比の面白さを歌にしたのだろうか。
 男が詠んだ句のように思えるが、田上菊舎は女性。宝暦3年(1753)長府藩士の家に生まれる。16歳で農家に嫁ぐが24歳の時に夫が他界し実家に戻る。28歳のとき剃髪し、29歳になって一人で長府を出て美濃の俳人・朝暮園傘狂(ちょうぼえん さんきょう)に入門する。北陸、信濃、奥羽を旅して江戸に逗留。32歳のときに一旦帰郷するが、その後も九州、京都など何度も訪れている。詩や書・画ばかりでなく茶道、琴にも長じていたという才能の持ち主。文政9年(1826)に74歳で亡くなるまで俳句を詠み、旅をつづけた。詳しくは調べていないが、その行動力は本当に江戸時代に実在した女性なのかと驚く。
 「八十八夜の別れ霜」という言葉もあります。五日後には立夏(2020.5.5)。この頃は一年の内でも最も過ごしやすい季節。田上菊舎のように野山を巡る旅に憧れるが、今年は自粛するしかない。時刻表を眺めながら、旅をした気分に浸ることで満足することにする。

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穀雨
2020.04.19
 

 穀雨(こくう)は二十四節気の一つで旧暦の春の終わり頃に降る雨、穀物の成長を促す雨であることから穀雨という。農作業をしたことがないのでよくわからないが、農家では今頃から田畑の手入れを行うのだろうか。それとも、すでに耕作の準備が整って種蒔や苗の植え付けをする状態なのだろうか。そもそも二十四節気が定められた昔と違って、現在では暦の「穀雨」を農作業の目安にすることはないのかもしれない。私が住んでいる辺りには田畑が見られないので「穀雨」の実感がない。少し遠出して田畑のある場所を探してみたいと思うのだが、武漢ウィルスによる緊急事態宣言が発令された地域に住んでいるのでそれも控えざるをえない。
 二十四節気は中国・中原地域が発祥の地。広い意味の中原地域には湖北省の武漢市も含まれる。今年の「穀雨」は私にとっては「酷雨」のようだ。

  今日よりは 夏の衣に なりぬれど 着る人さへは かはらざりけり
                              
凡河内躬恒 延喜13年(912)亭子院歌合

  平安時代の風習では旧暦の4月1日(2020.4.23)は衣替えの日。冬服から夏服に着替えた。江戸時代になると季節ごとに年に4回の衣替えをしたようです。現在の習慣では6月1日と10月1日を衣替えの日としていますが、生活様式の変化に加えて昨今の気象変化のめまぐるしさに、現代人にとっては決まり事としての衣替えの意識は遠のいているのではとも思う。
 平安時代の気象状況がどうであったのか調べてはいませんが、上流人にとっての衣替えは社会生活をする上での重要な作法。上記の歌の作者凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)は平安時代中期の人で三十六歌仙の一人。歌が詠まれたのは亭子院(宇多法皇)が主催した歌合(うたあわせ)の席。このような場に出るときは定められた衣服の着用が必定だったようです。
 歌合は歌人を左右の二組に分け、優劣を競う遊び。凡河内躬恒の詠んだ上記の歌は”あぢきなし=風流味のない”として負けとなったが、風流味のない私にはいろいろ考えさせる率直で面白い歌だと思う。躬恒は”衣替えをしてもその中身は変わっていない”と、皮肉を言っているのか。それとも”毎年の行事が今年も変わりなく行うことができた”ことを安堵しているのでしょうか。あるいは”毎年毎年繰り返される何の変哲もない行事に飽きた”と言っているのだろうか。その時の躬恒の心の内を知ることは出来ないが、聞く人の気分によって歌の解釈も異なってくる。(私の歌心の無い屁理屈の解釈だが)
 ウィルスの影響で激変するかもしれない世界の情勢。これは大袈裟ではなく、今は、現実に起こりうる危機的な状況下にあると思う。何かの目的を持った人には激動をチャンスと捉えるようだが、年老いた私には急激な変化を避けたい気持ちになる。平穏であっても繰り返される何の変哲もない日常は、時に退屈でもあるが、今こそその平穏で退屈な日常が愛おしくなる。来年は平穏で退屈な衣替えの季節が訪れることを願っている。

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灌仏
2020.04.08
 

 みほとけに 産湯かけたか 郭公(ほととぎす) 天上天下 たったひと声  
                                   
四方赤良(出典・狂歌集才蔵)

 4月8日は灌仏会(かんぶつえ)の日。小学校の低学年だったころ、悪ガキ二、三人と連れ立って近所のお寺に行ったことがある。お釈迦様の像に小さな柄杓で甘茶をかけてお参りをする。この時だけは神妙な顔つきでお参りをするのだが、それも魂胆があっての事。お参りが終わればお菓子かトコロテンにありつくことができた。今年の灌仏会はコロナウィルスの影響で開催されないだろうが、これでお釈迦様が機嫌を悪くすることはないと思う。
 ホトトギスの鳴き声を「テッペンカケタカ」と表現することが多いが、四方赤良(よものあから・安永、天明時代に活躍した江戸の人。本名、太田覃。別号に太田南畝、蜀山人、山手馬鹿人など)には「ウブユカケタカ」と聞こえたようである。灌仏会はお釈迦様の誕生を祝って行う法会。お釈迦様は生まれたとき、七歩歩いて右手で天を指し「天上天下唯我独尊」と言ったという。甘茶を産湯とし、ホトトギスのたった一声を天上天下唯我独尊になぞらえたのは否定的表現ではなく、それだけお釈迦様の言葉を際立たせて、その意味を重要視しているからだと思う。因みに「天上天下唯我独尊」の解釈はいろいろあるようですが、私が聞いた一つに”世の中で我が最も尊い存在である”と言っているのではなく、”世の中で我々すべての人は等しく尊い”という意味だという。


 
時鳥(ほととぎす) 一声なきて 住(い)ぬる夜は いかでか人の いをやすく寝る
                               
新古今和歌集 中納言家持
         ほととぎすの 一声だけ鳴いて去って行ってしまう夜は、どうして安らかに眠ることが出来ようか

                                          
 
 ホトトギスの季語は夏。4月8日は旧暦では夏の季節。夏とはいえ、初夏のさわやかな日を連想する。私が住んでいる地域でホトトギスの声を聴くことはなく、その所為で安眠を妨げられることはない。その代わり、毎日毎夜に流れるコロナウィルスのニュースを見たり聞いたりする度に不快さが増して寝つきが悪くなる。緊急事態宣言が発令される事態になっても、それぞれがそれぞれの立場で勝手なことを主張する。それが万民等しく尊く、自由である証であるなら致し方ないが、強い心を持っていないと大きな一声に惑わされそうだ。それにしても、等しく尊い人々は一致協力して事に当たろうとする気構えはないのだろうか。もっとも、かく言う私もシェルターに籠もってただ傍観しているだけの尊い人々の一人ではある。
 今、たった一声でもホトトギスの鳴き声が聞こえたら、安らかに眠ることができそうだ。それが叶わぬ今の私にできることはただ静かに眼を閉じて耐えることだけだ。

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清明
2020.04.04
 

 今年の4月4日は二十四節気で「清明(せいめい)」という。暦に詳しくない私は、二十四節気は農耕民族が耕作の目安として用いたもので、節気の名前は農耕に関連したものと思っていたが必ずしもそうではないようだ。「啓蟄」「春分」「穀雨」などは字を見れば何となく意味することが分かる気がするが、「せいめい」と聞いて思い起こすのは陰陽師の安倍「晴明」くらいだ。
 もともとの二十四節気は中国の戦国時代(紀元前500〜200年頃か)に中原地域(黄河中・下流の平原地帯)の気候を基準として定めたもの。辞典で調べれば、一年を春夏秋冬の四つに区分し、さらにそれを六つに区分する。12の「節気」と12の「中気」に分類してそれぞれに名前を付ける。「立春」「啓蟄」「清明」「立夏」「芒種」「小暑」「立秋」「白露」「寒露」「立冬」「大雪」「小寒」を節気とし、それぞれの中間に「雨水」「春分」「穀雨」「小満」「夏至」「大暑」「処暑」「秋分」「霜降」「小雪」「冬至」「大寒」の中気を配している。
 太陰太陽暦(太陰暦を基準とするが太陽の動きも参考として閏月を設ける暦)では「夏至」「冬至」の二至、「春分」「秋分」の二分、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の四立を暦と季節のずれを調整する役割として用いている。日本では二十四節気のほかに「土用」「八十八夜」「入梅」「半夏生」などの雑節を設けて季節感を補足している。フムフム。
 「清明」は草木が芽生える明るく生命力にあふれた清らかな季節を意味しているという。現代の中国では清明節として祝日となっているようです。この日はお墓参りや先祖を思って宴会(?)をするそうです。沖縄でもこの風習があるようですが、時節柄多人数で集まるのは危険ではないかと心配する。

 花に来ぬ 人笑ふらし 春の山

 江戸時代、寛文(1661〜1672)の頃に詠まれた句。「清明」が意味するように、春の山は草木が芽吹き明るく花に満ちて笑っているようにも見える。その笑いはせっかくの良い季節に訪れない人を笑っているようでもある。
 春の山に草木が芽生えて清らかに明るく装うのが自然なら、ウィルスが飛散するのも自然の力なのだろう。今年の春は人類にとって悲惨な記憶になるようだ。
 本棚の上に達磨が鎮座している。いつ買ったのか確かな記憶がない。十年以上前のことだと思う。片目を入れているので何らかの願掛けをしたのだろうがその記憶もない。両目を入れてないのは願いが叶わなかったからだろう。捨ててないのは未練があってのことか。願掛けの二度使いでは御利益がありそうではないが、ウィルス騒動が収まることを願い、成就した折には両目を入れよう。
 

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 エイプリルフール
2020.04.01
 
 
 エイプリルフールという言葉がいつから使われ始めたのか、その謂われも知らないが、今年はどうやらこの習慣は御法度のようだ。世間は、私自身も含めて全ての人が例外なく新型コロナウイルス、いや敢えて言う、武漢ウイルスで苦しんでいる。4月1日だからと言って嘘の話を垂れ流すのが許される雰囲気ではない。そうでなくとも以前から巷ではフェイクニースが氾濫している。マスメディアがこれに加担しているようにも感じて実に不快な気分になる。とはいえ、不満を言っても始まらない。夜が来れば必ず朝が来ることを信じて耐えるしかない。幸いに私は職もない暇人である。他人を助ける力はないが、静かにして耐えることは出来る
  去年の暮れに買ったサボテンに花が咲いた。机の上に置いて、特には手入れもしていなかったが、小さな花だが二輪咲いた。年を取った所為か、こんなことでも嬉しくなる。毎年、春になれば当然のごとく出掛けた桜見物は、今年は止めた。ウィルスに感染し死ぬことに然程の恐怖は感じないが、他人に迷惑をかけることになってはと外出することを躊躇う。得体の知れぬ魔物があちこちに潜んでいるようで、たとえ桜を見に出かけても愉快な気分でいられそうもない。代わりに、サボテンに憐れみの心があろうはずはないが、黄色い二輪の小さな花が外出を極力控えている老人の心を癒してくれている。

 人もただ このようにこそ ありたけれ すこしたらいで まめの名月

 五代目市川団十郎の狂歌。詠んだのは「豆名月」で秋だが、今の自分の気持ちに通じるものがある。豆名月は十三夜の月。満月より少し不足しているが、すべて満ち足りた生活よりも、多少足りなくともまめな生活であれば、足らないことによって向上心も湧いてくる。鬱陶しい気分を追い払うことは容易くないが、すべては時が解決することを願って気力、健康だけは保っていたい。 

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 天竺老人
2020.03.31
 

 酒一斗 のみにし人も物かわと かみこなしたる 餅は太白

 酒を一斗飲んで百編の詩を作った詩人(李白)がいるが、そんなのは何とも思わない(物のかずではない)。自分は酒ではなく餅を
 食ってこれに対抗しよう。噛み砕いて食った餅は自分が目指す(憧れる?)相手の名に因む太白餅だった。(李白=太白)


 江戸時代の人、竹杖為軽(たけつゑのすがる)が詠んだ狂歌である。竹杖為軽は本名を森島中良(もりしま ちゅうりょう)といい、宝暦4年(1754・異説もある)に医者の家に生まれる。自身も医者であったが戯作者、狂歌師としても多くの作品を残している。竹杖為軽のほかに森羅万象(しんら まんぞう)、万象亭(まんぞうてい)、天竺老人などの号を用いている。また、前野良沢、杉田玄白、平賀源内、林子平、司馬江漢など当時の一流著名人との親密な交流もあった。
 恐れ多くも、私のホームページのタイトルに「天竺老人」を使用してしまったが、知らずに使用したのではなく、知っての上の所業である。とはいえ、不相応に先人の偉業にあやかろうなどと考えての事ではない。「天竺」は一般的にはインドの昔の呼び名であるが、「天竺浪人」という言葉もある。これは平賀源内が別名で使ったようだが、この場合の「天竺」は得体の知れない、どこの馬の骨か分からない、といった意味で用いている。実際に江戸時代の人にとっては天竺は行くことが叶わない遙かに遠い地であり、それが何処にありどんな土地なのか、想像上の地であったと思われる。私の場合の「天竺」は憧れの天竺ではなく、まさしくどこの馬の骨かもわからない得体の知れない怪しい老人、私にぴったりの呼称である。

 ぶきように 書くが大津の 上手なり
 大津絵の よくできたのは 売れ残り

 江戸時代の川柳。大津絵は大津追分で売られていた素朴で愛嬌のある絵。名人は意図して不器用な様に描くのだろうが、私はもともとの不器用者。他人の評価など気にすることもなく、これからも自己満足のホームページを書き綴る。

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