明日(あす)ありと思う心にほだされて 今日もはかなく暮らしぬるかな
内藤丈草(ないとうじょうそう) 俳諧随筆「寝ころび草(元禄7年・1694)」より
今年に限ったことではないが、年の暮れになると突然に気持ちが落ち込む瞬間が現れる。年が改まることを然程気にしてはいないが、それでも一年の区切りを無視はできない気持ちがちょっとした罪悪感を伴って浮かび上がってくる。この年齢になって、今年一年に何かをしようとする目標があった訳でもないのだが、日々漫然として過ごしたことを悔やむ気持ちになる。だからと言って、来年こそはと言った気分になることもなく、何かを成し遂げたいといった思いが浮かんでくることもない。何のために生きているのか、などと大上段に構えて考えるのも疲れる。
人は希望を持たないと生きていけない生き物なのだろうか。明日があると思う心は、今を生きるための糧なのだろうか。
人は誰しも程度の差はあっても日々の生活に不満を持っているとは思うが、それがすぐさま怒りに変わったり、あるいはすぐさま不満を解決するための行動に移ったりは誰もがするわけでもない。まして老人と呼ばれる年齢に達して久しい我が身にとっては今日よりは明日と考えるのはかえって虚しい気分になる。
明日はない。ただ寿命が尽きるのまでの日々を生きるだけのこと。来年はそんな気持ちで過ごすことにしよう。そして、おそらく、生きていれば来年の年の暮れには今日と同じように気持ちが落ち込む瞬間が訪れるのだろう。それでいい。
今、港の方から船の汽笛が聞こえてきた。新しい年、令和5年。西暦2023年が 始まったようだ。 |