五重塔三重塔 国宝・重要文化財の五重塔


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国宝・重要文化財の五重塔 近代建築の五重塔 国宝・重要文化財の三重塔 主要な三重塔


 国宝・重要文化財の五重塔
  寺院名  所在地  建立時期  高さ(m)  訪問日 
重文  善通寺  香川県善通寺市善通寺町3  明治35年(1902)  45.2 2013.04.22
国宝  瑠璃光寺 山口県山口市香山町7−1 嘉吉 2年(1442) 31.2 2022.03.12
重文  厳島神社(豊国神社)  広島県廿日市市宮島町  応永14年(1407)  27.6 2017.03.26
国宝  明王院 広島県福山市草戸町1473 正平 3年(1348) 29.1 2017.03.27
重文  備中国分寺   岡山県総社市上林1046  天保 6年(1835) 34.3 2014.10.21
国宝  室生寺  奈良県宇陀市室生78   奈良時代末期〜 16.1 2002.08.03
国宝  法隆寺  奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内  奈良時代 32.5 2013.06.27
国宝  興福寺 奈良県奈良市登大路町48 応永33年(1426) 50.8 2013.06.27
国宝  醍醐寺   京都府京都市伏見区醍醐東大路 天歴 5年(951) 38.2 2013.06.28
重文  法観寺(八坂の塔)  京都府京都市東山区清水八坂  永享12年(1440) 38.8 2013.06.28
国宝  東寺(教王護国寺) 京都府京都市南区九条町1 正保 元年(1644) 54.8 2013.05.28
重文  仁和寺  京都府京都市右京区御室大内33  正保 元年(1644) 37.1 2013.06.28
国宝  海住山寺  京都府木津川市加茂町例幣  建保 2年(1214) 17.7 2018.12.12
重文  妙成寺  石川県羽咋市滝谷町ヨ1  元和 4年(1618) 34.1 2011.08.28
重文  妙宣寺  新潟県佐渡市  文政 8年(1825) 24.1  
重文  興正寺 愛知県名古屋市昭和区八事本町 文化 5年(1808) 30.0 2012.08.28
重文  大石寺 静岡県富士宮市上条2057 寛延 2年(1749) 34.0 2015.03.13
重文  池上本門寺  東京都大田区池上1−1−1  慶長12年(1607)  31.8 2011.01.04
重文  寛永寺  東京都台東区(上野動物園内)  寛永16年(1639)  36.4 2011.05.24
重文  法華経寺  千葉県市川市中山2−10−1  元和 8年(1622)  31.6 2011.09.12
重文  日光東照宮  栃木県日光市山内  文政 元年(1818)  34.1 2011.05.16
国宝  羽黒山  山形県鶴岡市羽黒町手向7  文中 元年(1372)  29.4 2015.05.24
重文  最勝院  青森県弘前市銅屋町63  寛文 7年(1667)  31.2 2017.09.11

 

重文 善通寺五重塔  香川県善通寺市善通寺町3−3−1 


    善通寺 五重塔 


 善通寺は真言宗善通寺派の総本山。号は屏風浦五岳山誕生院。空海(弘法大師)の父で地元の豪族であった佐伯直田公(善通)の奇進を得て大同2年(807)に建立、弘仁4年(813)に落成したとされる。もともとは佐伯氏の氏寺の性格が強い寺であったようだ。創建当時は15の堂宇が建てられていた。
 中世には足利氏、近世は高松松平氏、丸亀京極氏の庇護を受け繁栄した。現在の伽藍は創建地である東院と佐伯家の邸宅跡であり空海の誕生地とされる西院に別れている。西院は鎌倉時代の創建という。江戸時代までそれぞれの院に住職がいたが、明治以降は同じ寺院として運営されている。
 五重塔は東院にあり、弘化2年(1845)に着工し明治35年(1902)に落成した。創建以来4代目の五重塔である。総ケヤキ造りで高さは45、23m。この塔は心柱が五層目から鎖で吊り下げられている。江戸後期から多層階の建築に用いられた当時の最高建築技法である懸垂工法を採り入れている。また各階には床板が張られ、人が登れる構造になっている。平成24年(2012)12月に国の重要文化財の指定を受けた。(2013年4月22日撮影)

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国宝 瑠璃光寺五重塔 山口県山口市香山町7−1 


     瑠璃光寺 五重塔


 35年前に訪れたときの記憶では鬱蒼と茂った木立に囲まれた静寂の中に佇む五重塔の印象だった。再び訪れて、むかし見た五重塔と同じなのかと戸惑う。あの時、五重塔の周りが今のように庭園として整備されていたかどうかの確かな記憶がないので不確かなことだが、周りの環境が変わると五重塔も少し変わって見える。とはいえ今も昔も五重塔の素晴らしさは変わらない。
 五重塔は室町時代の嘉吉2年(1442)のころの建立という。当時この地を支配していた大内氏25代の大内義弘が応永6年(1399)の応永の乱で室町幕府に敗退して戦死。大内氏の家督を継いだ弟の盛見が兄の弔いの為に五重塔の建設を開始したが、盛見も永享3年(1431)に九州での戦で戦死したため完成が遅れた。
 大内文化の傑作とされる五重塔は、高さ31.2m。檜皮葺。和風様式で二層にのみ回縁が設けられている。初重には円形の須弥壇が作られ、大内義弘の像と阿弥陀如来像が安置されている。
(2022年3月12日撮影)

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重文 厳島神社(豊国神社)五重塔 広島県廿日市市宮島町   


   厳島神社 五重塔


 厳島神社は平清盛によって創建されたと思っていたが、その歴史は太古に遡るという。社伝では推古天皇元年(593)に当地の豪族・佐伯氏が「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る社殿を立てたのが最初とされる。厳島(いつくしま)は市杵島(いちきしま)がなまったとの説がある。ただし大規模な社殿を建設したのは平清盛によるが、清盛の時代の社殿は火災により焼失し、現在残る社殿は仁治年間(1240〜1243)頃のもの。五重塔はそれよりも新しく応永14年(1407)に創建されたと伝えられる。和様と禅宗様(栄西が伝えた唐風形式)が混在した五重塔。また心柱は2層目までしかない。
 天文24年(1555)この厳島で毛利元就と大内氏の実権を握った陶晴賢との合戦があった。厳島は神社の神域であるが海路の要害でもあり、ここに毛利側の宮尾城があった。陶晴賢は宮尾城を攻略するため厳島に上陸し、五重塔近くの塔の岡に陣を置く。合戦は村上水軍、小早川軍が加わった毛利軍が陶氏を討ち取り勝利する。戦後、毛利元就は神域の穢れを祓う為に死者をすべて島から運び出し、血の染み込んだ土を削り取ったという。それにしてもこの合戦で社殿も五重塔も焼失しなかったのは両軍とも神罰を恐れてのことか。(2017年3月26日撮影) 

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国宝 明王院五重塔 広島県福山市草戸町1473 


    明王院 五重塔


 明王院(みょうおういん)はかつては常福寺と言われ、大同2年(807)に弘法大師(空海)によって創建されたという。また明王院の前を流れる芦田川の中州に鎌倉時代から室町時代まで約300年間存在した「草戸千軒町」がその門前町として栄えていた。草戸千軒町は物流の拠点としても栄え、その財力によって社殿が維持されていたようだ。草戸千軒町は江戸時代初期には芦田川の洪水で消滅した。
 五重塔は貞和4年(1248)に創建されたものが今に残る。南北朝時代の和様建築の代表的な五重塔。心柱は初層の天井までしかない。国宝に指定されている。五重塔に並んで建つ本堂も元応3年(1321)の建立で国宝に指定されている。隣接地には福山市で最も多く初詣での参拝客を集める草戸稲荷神社があるが、その朱塗りの豪華な社殿と対照的に、明王院は古武士の風格がある。いや、威厳とか忍耐といった言葉ではなく「憐れみ」「慈悲」といった言葉が自然に浮かんでくるような雰囲気がある。(2017年3月27日撮影)

 

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重文 備中国分寺五重塔  岡山県総社市上林1046 


   備中国分寺 五重塔


 備中国分寺のある吉備地方には、かつて大和政権に対抗し得る勢力が存在していたという説もある。奈良時代、阿部仲麻呂とともに唐に渡り、また東大寺の造営の責任者となた吉備真備(きびのまき)はこの地方の豪族であった吉備一族の末裔という。もともと吉備地方は一つの国であったが、強大な勢力を削ぐために備前、備中、備後に分割されたともいわれる。備中国分寺は聖武天皇の詔(天平13年・741)により全国に建立された国分寺の一つで、七重塔も建てられていたらしい。現在の国分寺は最初の場所から500m程離れた場所にある。廃寺となっていた国分寺を天正年間(1573〜1592年)に備中高松城主の清水宗治が再興し、それが衰弱すると江戸時代・宝永年間(1704〜1711)に再建される。
 五重塔は弘化年間(1844〜1847)に完成した。江戸後期の建築様式で建てられた代表的な五重塔。上層と下層の差が少なくスリムな塔で、丘の上に建ち、四季折々に自然の美しさ、のどかな田園風景が見られる吉備路から五重塔の姿を遠望することができる。(2014年10月21日撮影)

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国宝 室生寺五重塔  奈良県宇陀市室生78 


    室生寺 五重塔


 室生寺は奈良時代の末期、宝亀年間(770〜781)に草創されたとされる古刹。山号を「宀一山(べんいちさん)」という。「宀一山」は室生山の略字との説もある。真言宗室生寺派の大本山。女人禁制だった高野山に対して、女人の参詣が許されていたことから女人高野の別名がある。
 五重塔は平安時代初期(800頃)の建立で、屋外の木造五重塔としては法隆寺の五重塔に次いで日本では2番目に古い建物といわれ、国宝に指定されていいる。塔の高さは16m強と五重塔としては比較的低い。 この塔の特徴は、普通は一重目から五重目に向けて屋根の大きさが逓減してゆくが、室生寺の五重塔はあまり変わらないことにある。また最上部の九輪の上に通常は「水煙」という飾りがつくが、この塔はかわりに「宝瓶(ほうびょう)」という壺状の飾りがついている。寺伝では、室生寺の創建に関わった僧侶・修円が室宇山に住む龍神を「宝瓶」に封じ込めたとされている。
 室生寺を訪れたのは今回で4度目だと思う。前の3度はいずれも同行者がいたが今回は一人で訪ねた。特に意味があってのことではないが、この寺を訪ねてみたいと急に思い立った。そんな気分になったのは何故だろうか。自分でもよくわからない。(2002年8月3日撮影)  


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国宝 法隆寺五重塔  奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1−1


    法隆寺 五重塔


 初めて訪ねた寺ではないが、何故か初めて訪れたような気分である。何度か訪ねたこともあり、かつ日本を代表するお寺の五重の塔だが、それを眺めるのは今日が初めてのような気分だ。改めて法隆寺の五重塔の姿に魅せられる。
 法隆寺は推古天皇15年(607)に聖徳太子によって創建されたとされる。もっとも近時は聖徳太子の存在を否定する意見もあるが、それには関わらず現在残る伽藍は7世紀後半に建築されたものと確認されている。五重塔も他の建築物と同じく7世紀後半に建立された世界最古の木造建造物。他の伽藍と同時に平成5年(1993)日本で最初のユネスコの世界遺産に登録された。なお、五重塔の心柱は年輪測定で594年頃に伐採されたものとされ、創建当時の用材が転用されたものという説もある。
 法隆寺五重塔の特徴として各階層の屋根の逓減率が大きいことがあげられる。最上部は初層の約半分の長さでしかない。また、初層には裳階(もこし)が附けられている。初層内部には奈良時代に作られた塑像群が東西南北各面に安置されている。安定感がありバランスの整った何時までも眺めて飽きない塔である。(2013年6月27日撮影) 

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国宝 興福寺五重塔  奈良県奈良市登大路町48 


    興福寺 五重塔


 眼を瞑って、奈良を象徴する建造物として思い浮かべるのは大仏殿と猿沢の池から眺める興福寺の五重塔。小学生の時の修学旅行で見た光景が半世紀以上の月日を経た今でも蘇ってくる。もっとも、それ以後も何度か奈良は訪れているので、浮かんでくるイメージはその都度更新されたものかもしれない。しかし猿沢の池から眺める五重塔は小学生の時以来のような気がする。あのときの光景は、何故か抹香臭いにおいと共に浮んでくるのだが、今、猿沢の池のほとりに立って、あのとき感じた抹香の匂いがない。池を取り巻く柳の木が少なくなったせいなのだろうか。聞けば、猿沢の池のほとりにある老舗旅館も最近になって廃業したという。修学旅行生を受け入れていた旅館だった。昔の記憶が消えていくようで少しさみしい。
 興福寺は和銅3年(710)藤原不比等によって創建され、平安時代には大和国の壮園のほとんどを領するほどの権勢を誇った。五重塔は天平2年(730)不比等の娘の光明皇后の発願により造営された。当時の塔は火災により焼失、以後も焼失再建を繰り返し、現在の塔は応永33年(1426)に再建されたもの。軒の出が深く、奈良時代の特徴を残しているといわれます。初層は3間四方。創建当時と同じく薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒の三尊像が安置されている。(2013年6月27日撮影)  

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国宝 醍醐寺五重塔   京都府京都市伏見区醍醐東大路町22


    醍醐寺 五重塔


醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山。醍醐山(笠取山・標高450m)に200万坪以上の広大な境内をもつ。貞観16年(874)空海の孫弟子である理源大師聖宝が笠取山山頂に准胝観音、如意輪観音を安置して開山。開山当時は山頂部が中心であり、修験者の霊場として発展した。また醍醐天皇はこの寺を自らの祈願所として手厚く庇護することになり、次第に寺域も拡大し、山頂付近を上醍醐、麓の平地部分を下醍醐と呼ぶようになった。
 下醍醐は応仁の乱(1467〜1477)等の戦火により大半が焼失、荒廃したが、かろうじて五重塔だけが残る。しかし、慶長3年(1585)に秀吉によって醍醐の花見が催され、これをきっかけに大名による堂宇の寄進が続き、現在見られるような姿になったとされる。
 五重塔は醍醐天皇の冥福を祈るため承平元年(931)天皇の第3皇子代明親王の発願により着手したが、完成したのは20年後の天暦5年(951)。天正13年(1585)の大地震で甚大な被害を受けるも倒壊せず、慶長3年(1597)豊臣秀吉の援助で修復された。京都に残る平安時代建立の貴重な五重塔として現在に伝えられている。(2013年6月28日撮影) 

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重文 法観寺五重塔(八坂の塔)  京都府京都市東山区清水八坂上町388


  法観寺 五重塔(八坂の塔)


 清水寺に向かう途中、八坂通りを登れば目の前に法観寺の五重塔、八坂の塔が見える。清水寺からの帰り、三年坂(産寧坂)に出ると、町屋の向こうに八坂の塔を見ることができる。清水寺は何度も訪ねた寺。その都度八坂の塔を目にしていたのだろうが、あまり記憶に残っていない。おそらく、土産物屋や飲食店、あるいは同行者に目を奪われていたせいだろう。今回は人の気配の少ない早朝に一人、清水寺に向かった。その所為か、意識することもなく八坂の塔が目に入る。町並に自然に溶け込んだ姿がいかにも京都の風情だ。
 法観寺は崇峻天皇5年(592)に聖徳太子によって創建されたと伝えられているが、それはともかく平安遷都の以前から寺が存続していたのは確かのようだ。創建当時は大伽藍を擁していたようだが、現在は五重塔以外に目立った建造物はない。五重塔はたびたび焼失し、現在に残る塔は永享12年(1440)足利義教の援助で建立されたもの。純和様建築で、高さは東寺、興福寺に次いで3番目。創建時の塔跡に建てられ、礎石は創建当時のものが使われている。ガイドブックには塔の2層目まで登ることができるとあったが、残念ながら早朝でもあり、それは叶わなかった。(2013年6月28日撮影) 
 

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国宝 東寺(教王護国寺)五重塔  京都府京都市南区九条町1


  東寺(教王護国寺)五重塔


 8世紀の末(延暦15年・796頃)平安京の羅城(生)門の東西に、「東寺」と「西寺」がそれぞれ平安京の東の京、西の京および東国と西国の鎮護を目的とした官寺として建立された。その後、弘仁14年(823)に東寺は嵯峨天皇により真言宗の祖・空海(弘法大師)へ給預され、以後、真言密教の根本道場となる。
 東寺の五重塔は京都に立ち寄らなくとも新幹線の車窓から眺められる。この塔を見てここが京都であることを意識する。まさしく京都のランドマークとして古来より威容を誇っている。塔の高さは54.8mで木造の塔としては日本で最も高い。最初に建立された五重塔は天長3年(826)空海により建築が着手されたととされるが、実際には空海没後の9世紀末になって建立された。その後4度焼失し、現在の塔は寛永21年(1644)に徳川家光の奇進で建立された5代目という。
 因みに、東寺は教王護国寺ともいうが、どちらかが正式名称というのでもないようだ。平安時代より公式文書に「東寺」という呼称が用いられている。重要文化財の指定等の官報記載の呼称は「教王護国寺」だが、これ以外に用いられることは特殊の場合のようだ。(2013年6月28日撮影)  

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重文 仁和寺五重塔  京都府京都市右京区御室大内33    
仁和寺 五重塔 
 御室さくらで有名な仁和寺(にんなじ)は仁和4年(888)宇多天皇によって創建された。宇多天皇が出家後に仁和寺の伽藍の西南に御室(おむろ)と呼ばれる僧坊を建て、ここに住居したことから御室御所の別称がある。その後も明治に至るまで皇族・貴族が門跡を務め、皇室ゆかりの寺として知られ、また門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していたとされる。
 室町時代になって寺勢が衰え、応仁の乱(1467〜1477)で全ての伽藍が焼失。寛永年間(1624〜1644)に徳川幕府によって再建された。国宝の金堂はその時、旧皇居の紫宸殿を移築したもの。重要文化財に指定されている五重塔は正保元年(寛永21年=1644)に再建されている。五重塔は復古調の建築様式であるが、江戸時代の建築の特徴でもある各層の屋根の逓減率が小さい、といった特徴をもった建物。
 仁和寺を訪れたのは、実は初めてのこと。幾度となく京都を訪れているが、この近くの竜安寺、金閣寺を訪ねても仁和寺は素通りした。桜で有名な寺であるとの印象から、その時期にこの地を訪れることがなく、したがって訪ねる興味が起きなかった。今回も桜の季節ではないが目的は五重塔を訪ねること。しかし、五重塔以外に見るべき建造物は多数あり、また明治から大正時代に再建された御室御所やその庭園は疲れた心を束の間ではあるが癒してくれる。(2013年6月28日撮影)
 

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国宝 海住山寺五重塔  京都府木津川市加茂町例幣海住山20 


   海住山寺 五重塔


 昨日の夕刻から降り出した雨は明け方にはやんでいた。午前8時、宿とした近鉄奈良駅前のビジネスホテルを出る。平年並みの気温というが、寒い。JR奈良駅から関西本線の加茂駅に向かう。加茂駅から海住山寺(かいじゅうせんじ)まで徒歩で1時間強の行程。
 海住山寺は標高473mの三上山の中腹にある。途中木津川を渡り、麓の集落までは平坦な道程だが、ここから急坂が続く。車道が整備されているが、この勾配を登るのは車にとっても迷惑な”労働”だ。麓までは時々太陽が顔を覗かせていたが、寺に着くと霧雨模様だった。
 海住山寺は寺伝によれば天平7年(735)の創建とされる。平安時代に造られ重要文化財に指定された十一面観音を本尊としている。国宝に指定されている五重塔は鎌倉時代の建保2年(1214)に完成。裳階(もこし)付きで高さは17.7m。国宝、重文に指定された五重塔としては室生寺の五重塔に次いで低いという。裳階には壁がなく柱だけで支える構造になっているので重圧感がなく開放的な趣のする塔である。建築の専門的なことはよくわからないが、五重塔では普通、軒を支える肘木は三手先という技法を用いるが、この塔は各層二手先の組物となっているという。簡素で軽やかに見えるのはその所為なのだろうか。
 私以外に参拝客はいない。寒さに震えながらもしばし留まり静寂な空気を充分に堪能した。(2018年12月12日撮影)  

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重文 妙成寺五重塔  石川県羽咋市滝谷町ヨ1


    妙成寺 五重塔


 妙成寺は日蓮宗の寺として永仁2年(1294)に創建されたが、興隆を極めたのは前田利家が能登の支配者となってから。本堂は慶長19年(1614)に建立され現存。国の重要文化財に指定されている。五重塔は元和4年(1618)に建立された。これも重要文化財に指定されている。この他にも祖師堂(寛永元年・1624建立)、経堂(寛文10年・1670建立)、書院(万治2年・1659)、鐘楼(寛永2年・1625建立)、三光堂(元和9年・1623建立)等々、前田家寄進の伽藍が一度の火災にも遭わず現存し、10棟の建物が重要文化財に指定されている。五重塔は前田家の御用大工・坂上又三郎を棟梁として日光東照宮の五重塔とほぼ同じ設計・寸法で建てられているという。
 北陸に唯一の五重塔がある寺院、それだけの知識で訪れた妙成寺だが、境内に入ってその規模の大きさ伽藍の佇まいに驚き、そして感銘する。江戸時代前期に建てられた数々の伽藍が、強く自己主張するのでもなく、それでいて確かな存在感を見せて静かに佇む姿がなんとも心地よい。能登の風情に心が和み、豊かな気分で一時を過ごすことができた。(2011年8月28日撮影)   

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重文 興正寺五重塔  愛知県名古屋市昭和区八事本町78 


    興正寺 五重塔


 八事山興正寺は真言宗の寺で貞享3年(1686)に開かれた。2代尾張藩主の時代に伽藍も整備され、南から総門、中門、五重塔、本堂を一直線に配した伽藍形式となっている。今に残る五重塔は文化5年(1808)の建立で江戸時代後期の様式によって建てられている。装飾は少ないが和様の堂々とした建築である。
 興正寺の南側には信州飯田に抜ける街道が通っている。街道を挟んだ向かい側には八勝館という広い庭園のある料亭があり、その少し離れたところに江戸時代の旅籠を彷彿させる旅館があった。両開きの戸口を開けると土間形式の玄関があって、正面の上がり座敷には幅約一間の急なはしご状の階段が目に飛び込む。大学生の時、クラブ活動の合宿でこの旅館をしばしば利用した。旅館を出て興正寺の境内を走ってグランドまで通ったことが懐かしい。もう40年以上も前のことだ。もちろん当時から五重塔はあったが、なぜだかそれを眺めた記憶がない。ただ、旅館を含めた周りの風景が何時までも優しい思い出として残っている。しかし今は江戸時代にタイムスリップしたような旅館は見当たらない。興正寺の境内も当時はもっと鬱蒼と樹木が生茂っていたように感じたが、今は駐車場も整備されて明るく開放された雰囲気だ。 40年もたてば記憶にある風景が消え去るのは当然のことかもしれない。(2012年8月28日撮影) 

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重文 大石寺五重塔  静岡県富士宮市上条2057  


    大石寺 五重塔


大石寺(たいせきじ)は正応3年(1290)に創建された古刹。日蓮正宗の総本山。五重塔は寛延2年(1749)に建立され国の重要文化財に指定されている。
 大石寺の境内は広大である。三門も享保2年(1717)に建立された豪壮な建物である。しかし寺の雰囲気がちょっと異様に感じる。これまで訪れたお寺とはちょっと違った空気が流れているようだ。無宗教の私にとっては如何でもよいことではあるが、その原因は巨大な新興宗教団体との確執にあるようだ。同じ仏教を信奉する者どうしの争いは部外者の私には醜いものにしか見えない。もっとも人間の歴史と同様に宗教の歴史も所詮は力を誇示する争いの歴史なのだろう。洋の東西を問わず、また過去と現在にかかわらず、おそらく未来永劫に、人間の悪しき性や煩悩は宗教の信奉者であるか無いかにかかわらず消え去ることはないようだ。(2015年3月13日撮影) 

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重文 池上本門寺  東京都大田区池上1−1−1


  池上本門寺 五重塔


池上本門寺は山号を長栄山。院号を大国院。寺号を本門寺という。弘安5年(1282)病身であった日蓮は湯治のために身延山を発って常陸の国へ向かう。途中、武蔵の国池上郷へ着いたときにはこれ以上進むこともできないほど病気が悪化。この地の豪族、池上氏館で入滅までの20日余りを過ごすことになる。その間、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開山供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源とされる。 
 鎌倉、室町時代を通して関東在住の武士の庇護を受け、江戸時代に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家他の祈願所となって栄えた。表参道の96段の石段は加藤清正が寄進したものという。
 池上本門寺やその周辺の町屋は池波正太郎の時代小説「鬼平犯科帳」にもしばしば登場する。江戸情緒の残る寺院でもある。太平洋戦争時の空襲で伽藍の多くが焼失したが、五重の塔、総門、経堂、宝塔は残った。
 五重塔は慶長13年(1608)に徳川2台将軍秀忠の乳母・岡部局の発願により建立されたものが現在まで残る。国の重要文化財に指定されている。初層は和様。二層以上は禅宗様の建築様式となっている。全面をベンガラ(赤色塗料)で塗られている。(2011年1月4日撮影)  

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重文 寛永寺五重塔  東京都台東区(上野動物園内) 


    寛永寺 五重塔


寛永寺は天台宗関東総本山の寺院。山号を東叡山。創建は寛永2年(1625)開基は徳川家光。開山は天海上人。徳川家の霊廟がある。
 徳川家の菩提寺としては中世から存在していた増上寺があるが、寛永寺は2代将軍秀忠、3代将軍家光によって大伽藍が整備された。江戸における天台宗の拠点として、天海の望みをかなえるためのものであったという。
 江戸期の寛永寺の境内は広大なもので現在の上野公園一帯が寺の境内であった。 慶応4年(1868)の彰義隊の戦いによって根本中堂をはじめとする主要な堂宇が焼失、また太平洋戦争の空襲により徳川家霊廟の大部分が焼失した。五重塔は焼失を免れて現存する。現在の塔は創建時の塔が寛永16年(1639)に焼失後に直ちに再建されたもので2代目。国の重要文化財に指定されているが、上野動物園の敷地内にあり入場料を払わないと拝観できない。所有は東京都となっているので宗教行事はない。したがってストゥーバの役割を持たない五重塔である。(2011年5月24日撮影) 

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文 法華経寺五重塔  千葉県市川市中山2−10−1  


    法華経寺 五重塔


 法華経寺は日蓮宗の大本山の寺院で山号は「正中山」。中山法華経寺とも呼ばれている。創建は鎌倉時代の文応元年(1260)。開基は常修院日常。 もともとは「本妙寺」と「法花寺」の二つの寺に分かれ、住職は両寺を兼務していたが。天文14年(1545)に古河公方であった足利晴氏によって”諸法華宗之頂上”という称号が与えられ、以後両寺が統合して法華経寺が誕生したとされる。
 日蓮の真筆とされる「立正安国論」「観心本尊抄」が寺宝として伝わり国宝に指定されている。また、日蓮宗の祈祷根本堂場として毎年11月1日から2月10日まで寒百日大荒行が行われる。これは世界三大荒行の一つと言われている。 
 五重塔は本阿弥光室が元和8年(1622)に加賀藩主前田利光の援助を受けて建てたもの。装飾や彫刻は少なく、どちらかと言えば質素な造りとなっているが、江戸初期の建築様式を留める落ち着いた和様建築。国の重要文化財の指定を受けている。境内には建造時の様式を残す比翼入母屋形式で立てられた祖師堂の他、法華堂、四足門が国の重要文化財に指定されている。(2011年9月12日撮影)   

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重文 日光東照宮五重塔  栃木県日光市山内


   日光東照宮 五重塔


 日光東照宮は徳川家康を神格化した東照大権現を祀るために建立された寺院。家康の遺体は当初久能山に埋葬されたが、死後の翌年元和3年(1617)に日光に改葬された。今日見られるような荘厳な社殿の整備は寛永11年(1634)から三代将軍家光によって行われた。東照宮は山王一実神道を基とし薬師如来を本地仏とする神仏習合の形式をとる。ただし、明治以降は神社は「東照宮」および「二荒山神社」、寺院は「輪王寺」に分離した。
 五重塔は慶安3年(1650)に若狭小浜藩酒井忠勝によって寄進されたものが初代。この塔は文化12年(1815)に火災により焼失。文政元年(1818)に初代の塔と同じ若狭小浜藩の10代目藩主酒井忠進によって再建された。これが現在に残る。他の東照宮社殿のきらびやかな装飾に負けず劣らず、金物を金、組物、彫刻を極彩色で彩る豪華絢爛な造り。日本一華麗な塔とされる。国の重要文化財に指定されている。(2011年5月16日撮影)  

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国宝 羽黒山五重塔  山形県鶴岡市羽黒町手向7


    羽黒山 五重塔


 羽黒山は修験者の道場で月山、湯殿山と合わせ出羽三山という。ここには三山の神を祀る三神合祭殿があり、その参道に五重塔が建つ。
 塔の創建は承平年間(931〜938)平将門によるという伝承があるが確証はない。現存の塔は応安5年(1272)に再建されたもの。柿葺の純和様式で、彩色等が施されていない素木の塔。
 もう何十年も前のことだが、この塔の映像を初めて見たのはNHKテレビで放映された大晦日の番組でのこと。雪の積もる参道を羽黒山山頂の神社に初詣でする人の姿の脇に五重塔が映っていた。その美しい景色は今でも忘れない。何時かは訪れようと思っていたのがようやく叶った。ただし、雪に包まれた景色はない。訪れたのは5月の終わり。ここに着く途中で眺めた月山や鳥海山の山頂付近にはまだ少し雪が残っていたが、地球温暖化の影響かまだ5月末というのに気温は30度近くまで上昇。参道入り口の随神門から15分ほどに位置する五重塔まで歩くだけで汗をかく。五重塔から山上の神社にはさらに40分から1時間かけて石段を登る必要がある。体力的に厳しいし、それに時間の制約もある。一の坂は登ったが二の坂の前でUターン。それでも樹齢千年の巨木もある杉並木の一部を歩くだけで気分は壮快になった。(2015年5月24日撮影) 

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重文 最勝院五重塔 青森県弘前市鍋屋町63 


    最勝院 五重塔


 最勝院(さいしょういん)は真言宗智山派の寺院。山号は金剛山。創建は天文1年(1532)とされ、弘前市堀越の地に堂宇を建立したのが始まり。弘前藩(津軽藩)の2代藩主津軽信枚の時代、慶長16年(1611)に藩の祈願所として現在地から3キロほど離れた田町に寺院を移転整備する。明治維新の神仏分離令により寺院の統廃合が行われ、最勝院は現在地にあった大円寺の跡に移転する。五重塔はもともとは旧大円寺の時代に建立されたもので、寛文7年(1667)に完成した建物。江戸時代の建立であるが、各層屋根の逓減率は古来の様式を残して高く、安定した優美な姿を見せている。江戸時代以前に建立された五重塔としては最北部にある。(2017年9月11日撮影)  

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